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「ゼロからイチにとても惹かれるんです。Mr.Childrenもゆずもゼロからのスタート。AIに引っかからないものにも珠玉の価値はあると信じている」【トイズファクトリー代表取締役 CEO 稲葉貢一インタビュー後編】

横浜の路上で、ゆずを見つけた日

誰もが反応できる名曲を次々と紡ぎ出すことができる稀有な才能、Mr.Childrenの桜井和寿を発掘し育て上げたトイズファクトリーの稲葉貢一だったが、日本中どこに行ってもMr.Childrenの音楽が流れているような状況下にあった1997年、彼の視線は再びストリートの名もなきアーティストに注がれていた。

――Mr.Childrenの次にくるトイズファクトリーのアーティストといえば、My Little Lover(1995年8月、シングル『Man & Woman/My Painting』でデビュー)とSPEED(1996年8月、シングル『Body & Soul』でデビュー)ですよね?

「そうです」

――かつて、デビュー直前にゴーバンズと袂を分つことになり、悔しい思いをした稲葉さんが、年月を経て手掛けた女性アーティストについて聞きたいことはたくさんあるのですが、それはまた別の機会に譲るとして、ここからお伺いしたいのは、ゆずのことです。ゆずのデビューは1997年ですが、その頃のトイズファクトリーは、業界の中でも重要な位置を占める大きなレコード会社になっていたわけですよね。

「そうなんですが、僕は相変わらず“メジャー”的なものが好きではありませんでした。トイズファクトリーは会社としてすごい売り上げを叩き出していましたが、個人としてはそういうことは忘れて、もう一回、ゼロからアクセスできるインディーズを探したいと思っていたんです」

――すごい話ですね。そうは思っても、なかなかできることじゃないのではないですか?

「だから僕は敢えて宣言したんですよ。広告費なんかゼロでいい。お金じゃないところでやるんだと。そして出会ったのがゆずだったんです。横浜の伊勢崎町の商店街でした」

――今となっては有名な、初期のゆずの路上ライブですね。

「あれは多分、3月くらいだったと思います。日曜日の夜10時頃にたまたま僕がそこを通りかかった時、アコギを弾いて歌っている一人の若者がいました。なんだか気になって見ていたら、10分くらいしてもう一人が原付バイクで来て合流しました。最初の一人が北川(悠仁)くん、後から来たのが岩沢(厚治)くんだったんですね。それで2人になってまた歌い始めたんですけど、『うわー、これはなんだ!?』と思いましたね」

――心に響くものがあったんですか?

「特別ではない日常的な場所だし、歌っているのはかっこをつけているわけでもない、隣に普通にいるような男の子。でも、遠巻きに見ていたら、なんだか心が洗われるような感覚になったんです。暗い夜でしたが、歌っているゆずと、少し離れて見ている僕。そこだけにスポットライトが落ちて、世界が僕とゆずだけになったような感じがしたんですよ。浄化されて、綺麗な気持ちになり、自然と微笑みが出るような感じでした」

――すごいお話ですね。

「これは! どうしよう⁉ と思って、しばらく考えていました。聴けば聴くほど、やっぱり、あまりにも良いなと思うんですが、さすがに路上で見かけたばかりの彼らに突然声をかけるのはちょっと恥ずかしいんですよ、僕としては。でも、今声をかけないと、もしかしたら一生会えないかもしれない。いつどこで路上ライブをやるのなんて分からないし。それで『これであったかいものでも買って』と100円を差し出し、『カセットとかないの?』と聞いたんです。そうしたら『ちょうど作ったばかりなんです』と言ってカセットを出すので、買ったんですよ」

――それ以上の具体的な話はしなかったんですか?

「その場では、それ以上は話しません。でも連絡先を聞いて、こちらからは名刺を渡しました」

――当時はトイズファクトリーの……

「専務です。専務の名刺を渡して、よかったら連絡をちょうだいと言いました」

――ゆずの2人もびっくりしたんじゃないですか? トイズファクトリーも大きなレコード会社になっていたし、稲葉さんの名前も有名になっていた頃でしょうから。

「いや、全然知らなかったと思いますよ。後に聞いたところによると、あの後2人で『そういえば、あの人来たよね』『どうする? 連絡する?』という話になり、改めて僕の名刺を見たそうです。肩書きを見て『あ、事務の人なんだ』なんて話していたそうです。“専務”を“事務”と読み間違えたんですね」

――(笑)本当ですか?

「それで、話は進んでトイズファクトリーからゆずのCDを出すことになったんですけど、彼らには所属事務所がありませんでした。でも僕はその頃、レコード会社と事務所を分けること自体が違うんじゃないかと思っていたんです。一緒にやった方が意思統一ができるんじゃないかと。だから、ゆずはトイズファクトリーではなく、ゆず単体のレーベル兼事務所であるセーニャを僕が中心になって作り、そこからリリースすることにしました。コンセプトは“宣伝しない宣伝費ゼロ”です」

――ここで、以前から考えていたことを実行されるわけですね。

「普通、デビューする新人アーティストは雑誌に広告を打ち、その代わりに編集ページでも取り上げてもらうという動きをするんですけど、そういうのは絶対に嫌だと思いました。懇意にしていた雑誌B-PASSの編集長に『広告は出せないけど、取り上げて欲しい』と話し、FM802の若手ディレクターの方にも『ライブを体験して下さい』と誘いました。とにかく、僕が感じたゆずの世界を体験してほしかったんです。すると、あっという間にゆずの路上ライブは社会現象のようになっていくんです」

――なんだかすごくインディーズ的な動きですね。

「ゆずのキャラクターが、隣のお兄さん的なものでしたから、この手法はハマったんでしょうね。爆発力はハンパではなかったです。路上で出会ったとき、お客さんは僕のほか3人しかいなかったのですが、あの日からCDが200万枚くらいの売り上げに達するまで、あっという間という感覚です」

――デビュー前後もゆずの路上ライブは継続したんですよね。

「そうですね。うちに来て1ヶ月目くらいの時、日比谷野音のスペースシャワーTVのイベントに出してもらいました。無名の新人ですから、僕が『(バンドのステージの)転換の時でいいから出して』ってお願いをして。それで、ゆずが歌ったらオーディエンスの反応がものすごかったです。彼らもステージ上で『今日この後、路上でライブをやるから、良かったら来て下さい』と宣伝して。そうしたらその日は50人くらい来て、次は80人、100人と増えていきました。1000人に達するのもあっという間で、名古屋、仙台と全国の無料の路上ライブサーキットを回りましたけど、ことごとくパンクしました。人、人、人で溢れかえっちゃって。その1年後にはもうアリーナツアーをしているわけですから、爆発力は凄まじかったです」

――SNSもない時代で宣伝費も使ってないわけですから、ほとんど口コミのように広まっていったわけですよね。Mr.Childrenもそうなのかもしれないですけど、ゆずは完全に“ムーブメント”という感じがしますね。

「ラフィンノーズはライブハウス、JUN SKY WALKER(S)は原宿ホコ天、そしてゆずは路上ライブからの叩き上げで、新境地に達した感じがしました。ただし路上ライブは、盛り上がって人が集まりすぎると、警察に注意されてできなくなるんですけどね。ゆずの2人からは最初の頃、『僕たちも東京のライブハウスでやりたいんです』って言われたんですよ。でも、『ダメだ』って答えたんです。東京のライブハウスでやっても普通だし、かっこよくない。横浜・伊勢崎町の松坂屋前で、毎週日曜日の夜10時に路上ライブをやるのがかっこいいんだって。『僕がそこにお客さんを連れてくるから、このかっこよさ、このコンセプトを守ろう』って言った記憶があります」

――なるほど。

「メジャーにいくとなると、誰でも同じ物差しで測って、同じプランで動かそうとするのが普通です。でも、僕はどちらかというと、まず“素材ありき”の考え方なんです。素材の魅力をとことん理解した上で、何を提供するか考える。アーティストの魅力の全体像をよく見て理解し、大切なものを全部残して伸ばしていきたいんですよ」

音楽とアーティストに対する情熱が、言葉の隅々からよくわかる。
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佐藤誠二朗

さとう・せいじろう●児童書出版社を経て宝島社へ入社。雑誌「宝島」「smart」の編集に携わる。2000~2009年は「smart」編集長。2010年に独立し、フリーの編集者、ライターとしてファッション、カルチャーから健康、家庭医学に至るまで幅広いジャンルで編集・執筆活動を行う。初の書き下ろし著書『ストリート・トラッド~メンズファッションは温故知新』はメンズストリートスタイルへのこだわりと愛が溢れる力作で、業界を問わず話題を呼び、ロングセラーに。他『オフィシャル・サブカル・ハンドブック』『日本懐かしスニーカー大全』『ビジネス着こなしの教科書』『ベストドレッサー・スタイルブック』『DROPtokyo 2007-2017』『ボンちゃんがいく☆』など、編集・著作物多数。

ツイッター@satoseijiro

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