2025.10.26
初の女性首相が誕生することは喜ばしいこと。けれども――【ブレイディみかこ著『シスター“フット”エンパシー』試し読み】
しかし、「女なら誰でもいいのか」という問題がある。特に、女性リーダーが、権威主義的で家父長制的な理念を持つ政党のトップに選ばれているときは、ちょっと引いた目でその理由を考えてみたほうがいい。現実的に考えたら、そういう政党で女性がトップまで上りつめるのはほぼ不可能なはずだ。では、なぜ彼女たちはするっと出世し、容易に頂点までたどり着くことができたのか。
ひょっとすると、若い女性をリーダーにすることで、女性蔑視的で風通しの悪い考えを持つおじさまたちが、自分たちの本当の顔を隠そうとしているのではないだろうか? ちっとも自分たちの考えは変えようとしないまま、女性をリーダーに据えることで、とりあえず極右ではありません、進歩的な政策も出す政党なのです、というイメージづくりをやっているだけではないだろうか? もしもそうだとすれば、彼らは自分たちが好きな家父長制的制度を維持する道具として、若い女性を利用しているだけかもしれないのだ。
同様に、トラス前首相の言うデスチャ・フェミニズムについても考えてみる必要がある。つまり、パワフルな女性たちだけが先頭を闊歩することが女性の地位の向上なのかということだ。先頭を歩けない女性、別に先頭を歩こうとは思っていない女性、歩くだけで精いっぱいな女性たちも含めた全シスターズの経済的・社会的な状況が改善されなければ、マクロなジェンダー・ギャップは縮まらないだろう。
女性政治家が女性たちにとって生きやすい社会をつくりたいと言うとき、それが彼女自身のように強くて野心のある女性たち限定のシスターフッドを意味していたら、排除された女性たちにとってはかえってつらい状況になる可能性もある。しばき経済でも、しばきフェミニズムでも、しばくタイプのポリティクスは、勝者にはやさしいが、敗者にはめっぽう冷たい。英国のサッチャー元首相は、元側近から「彼女にはシンパシーはあったがエンパシーはなかった」と言われたことがあるが、指導者に必要なのは自分と似た者への共感や同情ではなく、自分とは異なる者への想像力と理解なのである。なぜって、彼ら・彼女らがエンパシーのない人だったら、一部の人たちが一部の人たちのために行う政治になってしまうのであり、相手にされない人たちはどんどん排除されて、そこにはいない者として扱われてしまうからだ。
女性の政治リーダーは、女性であるというだけでロールモデルと呼ばれがちだ。だが、彼女たちが謳うシスターフッドにはエンパシーはあるだろうか?
だまされないよう、ぼったくられないよう、注視し警鐘を鳴らし合おう。それこそが地べたのわれわれにできる「Sisters are doin’ it for themselves」の「it」なんじゃないかとわたしは思うのである。
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