2025.5.21
「いくら低くても、山は自由だ」— 80代のジジイがすすめる「ゆる登山の極意」【沢野ひとし『そうだ、山に行こう』刊行記念インタビュー】
高校生の頃に山に目覚め、日本百名山など国内はもとよりヨーロッパ・アルプス、ヒマラヤと厳しい山にも挑んできた“山の人”でもある。
80代を過ぎた今は「ジジイにふさわしい」静かな低山登山に目を向けている沢野さんの最新エッセイ集『そうだ、山に行こう』(百年舎)が本日5月21日発売!
その刊行を記念してビギナーにも役に立つ「低山登山」のススメなどいろいろ伺ってきました。
(取材・文・撮影/佐藤誠二朗)

山を歩いていると気にならなくなる雑事
「もう高い山には登らない。でも、歩くことはやめない」
そう語るのは、80代になった今も自宅のある東京・町田市を起点に日常の“山歩き”を続けるイラストレーター・エッセイスト、沢野ひとしさんだ。
山に登るというよりも“山を歩く”。目指すのはピークではなく、静けさと身体の調律。そんな低山歩きを、沢野さんは淡々と、しかし深く楽しんでいる。
「腰が痛いとか、昨日飲みすぎたなとか、山を歩いてると気にならなくなるんだよ」。そんな言葉には、山と長年向き合ってきた人の実感がにじむ。
だが、この“ジジイのゆる登山”には確かな裏付けがある。若い頃の沢野さんは、ヒマラヤやヨーロッパ・アルプスの高山も征した本格的な登山家であり、岩場を攻めるロッククライマーでもあった。剱岳や穂高岳の峻険な岩稜を越え、谷川岳の雪壁を登った経験が、いまの“無理をしない山歩き”の土台になっているのだ。

「七国山」(標高128.5m)――低くても、歩いているだけで気持ちがいい
いま一番よく歩くのは、町田市にある七国山(標高128.5m)。かつて七つの国(相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野)が見渡せたという伝承がある低山だ。
現在では林に囲まれ、頂上からの展望はほとんどないが、古道や農道が縦横に延び、鎌倉古道を下れば晴れた冬の日に奥多摩、丹沢、富士山まで望める。
「低くても、歩いてるだけで気持ちがいい。それで十分」
七国山の周辺には、鎌倉時代の古道や史跡、農園や花園が点在している。町田ぼたん園や民権の森、津田薬師堂など、歩くたびに「今日はこっちを通ってみよう」とルートを変える楽しみもある。
地元の人が犬を連れて散歩する横を、沢野さんは黙々と歩く。特別な装備や予定は不要。春は山桜が、夏は緑のトンネルが、秋にはイチョウの大木が出迎えてくれる。薬師堂の前で手を合わせ、「いつまでもここを歩きたいね」と妻と話すという。
「たとえばイチョウの落ち葉がじゅうたんみたいになっていたり、あぜ道の脇にふきのとうを見つけたり。そんなことが嬉しいんだよね」
そんな沢野さんに、思い出に残るおすすめの低山を教えてもらった。
川苔山(標高1363.2m)――原点の山と兄の言葉
本格的な登山との出会いは小学生の頃。これは低山とは呼べないかもしれないが、兄に連れられて向かった奥多摩の川苔山(標高1363.2メートル)である。夏休み、長い林道を歩きながら、兄が言った。
「山は自由だよ」
普段は寡黙な兄が、そんな言葉を笑顔で語る姿に、沢野少年は強く惹かれたという。
高校に入ると山岳書に影響され、丹沢や奥多摩を次々と歩いた。登る人の息遣いや、雪の匂いがページから立ちのぼるような文章に心を動かされた。
「山は自分にとっての居場所になった。自由って、こういうことかと思った」

弥彦山(標高634m)――アルバイトで登った綺麗な形の山
20歳の晩秋、新潟県の弥彦山(標高634メートル)で、FMアンテナ設置のアルバイトを経験した。日本海に向かって突き出すような山容が印象的だった。
「低いけど海に向かって突き出したような山容が印象的で、綺麗な形の山」――沢野さんがそう語る弥彦山の頂上には、彌彦神社の御神体が祀られ、古くから信仰を集めてきた。
地元の小学生でも登れる山だが、海に面して独立しているため存在感がある。

クライマーを集める城山(標高342m)
静岡県伊豆の国市にある城山(標高342メートル)は、冬になると岩登りを好む人々が集まる場所だ。狩野川を渡り、キャンプ地にテントを張ると、あとは一日中身体を動かすだけ。
「梅の花が咲く頃、テントを張って暖かい岩を触っていると、身体がほぐれてくるんだよ」
クライミングも登山も、若い頃はもっとアグレッシブだった。だが、今は体をほぐすように、風に身を任せて歩く。岩と対話するような静かな時間が、心をほどいていく。

小川山(標高2418m)――息子家族とともに買った山荘のある山
ここ数年は、山梨県北杜市と長野県南佐久郡川上村の境にあり奥秩父山地に属する小川山(標高2418メートル)の山荘にも通っている。もともとは息子が岩登りに夢中になり、「ここがいい」と見つけてきた家だ。
「お前が気に入ってるなら俺もちょっと出すよ」と沢野さんも出資。結果的に、親戚や友人、孫たちも集まり、十人以上が泊まることもある賑やかな場所になった。
「でも、夢だったはずの別荘がね、いつの間にか“仕事”になっちゃう(笑)」
薪ストーブの掃除や草刈りなどに追われる。それでも、シラカバ林の木陰でスケッチする時間はかけがえのないひとときだ。
「クライミングや登山はまったくせずに、ただのんびりとスケッチしている。でも、結局ちゃんと絵を描かずに終わることが多いけどね(笑)」
小川山は今の沢野さんにとって、若き日のように山頂を目指す山ではなく、ふもと付近にある別荘近辺を歩く山となっている。