2020.5.15
佐藤賢一特別寄稿 老人の価値観で動く国—コロナ禍で見えた日本
フィクション、ノンフィクションともに、蓄積された知識を駆使した力作を発表し続けている。
コロナ禍が世界を覆う今、歴史に精通する氏から、特別メッセージが届けれらた。
今年3月。休校となり、体力維持のためにランニングをしていた中学生からエピソードは始まる……。
中学生を叱りつけた老人はゲートボールをしていた
三月頭の話だ。中二、この四月から中三の息子が友人に聞かされてきた。その友人は近所の公園を走っていたという。バスケ部だが、学校が休校になり、一緒に部活も停止された。コートでの練習はできない。それでも試合を走りきれる体力だけは維持したい、中学最後の年に何としても結果を残したいと、自分に毎日のランニングを課したのだ。
そこを呼び止められた。というか、いきなり叱りつけられた。同じ公園の芝生スペースで、ゲートボールをしていた老人のひとりだった。
「おまえ、中学生だろう。こんなところにいていいのか。家にいなくちゃいけないんじゃないか。おまえ、ひどい奴だな。ひとにコロナを移すかもしれないだろ。年寄りを殺すかもしれないとは考えないのか。おまえ、学校に電話してやるからな」
友人はショックで何もいいかえせず、家に帰った。その日でランニングも止めた。長い休みになったが、あとの毎日は部屋に籠もり、ゲームばかりしていたらしい。
小中学校の休校措置が発表されたとき、まず子供の命を守るためといわれた。が、それは御題目にすぎず、実情としては感染を拡大させないため、子供にウイルスを撒き散らかされないため、とりわけ高齢者に移さないためなのだと、そういう見方がなされていた。少なくとも中学生を叱りつけた老人の怒りは、この理屈から来ているし、それが間違っていたともいえない。しかし──。
私は首を傾げてしまった。自分たちはゲートボールで、平然と集まりながら? コロナ禍の最中でも、いつもと変わらない生活を楽しみながら?
あげく気がついたところ、今の日本というのは老人のためにある国なんだなと。それが今回コロナ禍のなかで、はっきりしたなと。
新型コロナウイルスが、中国武漢で発生した。日本にも入ってくるか。いや、もう入ってきている。すでにパンデミックである。そうやって二月、ことに半ばをすぎてからは、巷の緊張感も高まった。よく覚えているというのは、他人事でないなと感じていたからだ。
新型コロナウイルスに感染して重症化するのは、主に中高年以上で、とりわけ持病がある人だといわれていた。私はといえば五二歳で、これという持病はないものの、人間ドックの数値は決して褒められたものでなく、また今は吸うのを止めたが、四〇歳までは喫煙者だった。この肺炎にかかったら、かなりの確率で重症化するだろうなと、覚悟せざるをえなかったのだ
出かけるときはマスク、帰れば手洗い、うがいと、もちろん予防に努めた。なお戦々恐々だったというのは、重症化リスクの高い人間として、そのうち活動制限、外出規制等々を課せられるのではないかと考えたからだ。在宅で困るような仕事ではないが、やはり閉じこもり生活はストレスに感じる。できれば逃れたい。しかし元気な世代に、おまえたちが家にいろともいえない。しかしなあ、と悶々としていた矢先だった。