2026.10.24
「一次情報」を使って大切な人について語るということ【小川哲×長瀬海 対談・後編】
小説を批評するうえで大切なこと
小川 僕は実際に書く側になってテクスト論には限界があると考えるようになった。書かれた小説について考えるうえでは一次情報ってとても大事なんだよね。僕はもともとガチガチのテクスト論者で、作品の外側について考えることは極力避けてきたんだけど、書き手の立場からすると、作品のなかにある情報だけを頼りに作品を解釈する批評はどうしても天井が低いように感じてしまう。「どうしてこういう作品を書いたのですか?」って聞かれたとき、ほとんどの場合は初出媒体と担当編集者の顔が浮かぶわけで、依頼をくれた人に満足してもらうっていうのが書き手側の理屈だったりする。
一つひとつの文章が選び取られるときって、作者の置かれた状況がかなりの度合いで関係しているんですよ。仕事の依頼内容とか、締め切りまでの日数とか、どの媒体で書くかとかが作者の表現に少なくない影響を与えている。小説はそういう事情のなかで書かれるものだと知ってから、小説の内部しか見ないテクスト論では多くの部分が読み落とされることに気づいた。だからと言って、批評家は一次情報を必ず使えとは言わないけど、作者からすると書かれた文字列だけで作品を批評することには無理があるように感じるんだよね。
その意味では加藤典洋の文学の捉え方は書き手に近い。ただ、長瀬くんが紹介している加藤が指摘した『風の歌を聴け』の日付問題は、単なる作者の不注意だと思うけど(笑)。(注:実際に作中の日数をカウントするとカレンダーにはない一週間が発生する。加藤典洋はその一週間のできごとを異界で起きたことだと考えた。)
長瀬 加藤さんはテクスト論的な読解ではなんでもありになっちゃうから嫌だったんだよね。もちろん読みに正解はないけれど、その読み方では自分にとっての「ほんとう」が掴まれていないんじゃないかと考えた。僕は『僕と「先生」』でそこをもう少し慎重に考えたけど、でも加藤さんの批評が大切にしてきたものが何かはよくわかる。自分にとっての「ほんとう」を言葉にしていった先で、この世界で生きるうえで重要な真理が掴めるはずだと考えることが批評なんだ、という信念は僕にもあります。
ただ、未読の人に誤解してもらいたくないんですが、僕は今回の本で加藤さんの批評こそが正しいと言ったわけじゃないんです。加藤さんと付きあってきた14年間を振り返ると、その場その場で違和感を抱く瞬間もたくさんあった。今の時点で、自分はそうは考えないなと思うことも多い。それらを全て正直に言葉にしていこうと思った。一次情報を使ったけれど、それだけに頼ったわけじゃないのは、単なる回想録では先生の偉大さを誇示するだけになってしまうから。そうじゃなくて、自分の内側に吸収されている「先生」の批評、思想を相対化したかったから、一次情報と二次情報を行ったり来たりする必要があった。そうすることで僕と加藤さんの間にある距離そのものに批評性を宿せられると考えたんです。
何を言うかではなく、どう考えるか
小川 『僕と「先生」』は最終的に長瀬くんの戦後の捉えなおしに着地するよね。その流れで加藤典洋の代表作『敗戦後論』をめぐる論争の読みなおしが行われるけど、僕はあの本の最大の批判者だった高橋哲哉さんが教えていた表象文化論コースにいたから、当時の雰囲気がどんなだったかよくわかる。今でもおぼえているのは、別の先生のある授業で、韓国人留学生が『敗戦後論』を取り上げたときのこと。彼女は自分からあの本を扱いたいと言ってしっかり準備していったんだけど、授業中に先生にすごい怒られてしまった。もちろんその怒りは『敗戦後論』に向けられたものだったんだけど、彼女はかなりショックだったみたいで、授業後かなり落ち込んでた。喫煙所で一緒になったから、めっちゃ慰めたね。
長瀬 当時も今も、あの本に対する批判は多いですね。
小川 『僕と「先生」』のなかで長瀬くんはあの本の批判者と加藤典洋の考え方の違いを、スタートとゴールという言葉を使って考えていたと思う。『敗戦後論』は多くの左翼にとって、日本が侵略した相手と戦後どのように関係を結びなおすかを考えた本だった。その問題意識であの本を読むと、確かに加藤の主張はナイーブに映るんですよ。加藤は謝罪の道に至るうえで、アジアの死者よりも前に自国の死者を悼むべきだと考えたわけだから。
でも、長瀬くんが言っているように、加藤のその主張はゴールじゃないんだよね。戦後の日本社会はねじれを抱えている。アメリカによって二つの都市が滅ぼされたのに、今もまだ日本の人々はアメリカの傘の下でしか生きられていない。自分たちの憲法ですらアメリカによって押し付けられたものである。平和を享受しているがあまり見えなくなっているそのねじれを、今、どう考えるか。
加藤の問題設定はそこにあったわけで、あくまでもさっきの主張は加藤にとってスタートでしかなかった。個人の内面からスタートし、最終的に公共という目的地にたどりつくのが加藤の思想だったから、あの順番でなければならなかった。でも、当時のリベラルは公共、つまりゴールの方から考えようとしていたから、議論が全く噛みあわなかったんだと思う。その結果として『敗戦後論』は誤解されてしまったんだと、僕自身『僕と「先生」』を読んでクリアに理解することができた。
長瀬 『僕と「先生」』のなかで加藤さんは「どう考えるか」を追求したのに対し、多くの批判者は「何を言ったか」ばかりに注目したと僕は書いたんだけど、じつはそのヒントをくれたのは小川くんだったんですよ。去年、小川くんのデビュー10周年を記念して、朝日新聞出版の主導で特別リーフレットを作ったよね。そこに載っていたロングインタビューの聞き手を僕が務めたんだけど、そのときに小川くんは、みんな作家が何を書いたかばかりに注目して、どう書いたかに注意を払わない。でも作家にとってはどう書くかも大事なんですよ、という話をしたんだよ。そのインタビューが終わって小川くんと雑談していたときに、「批評も何を言うかじゃなくて、どう考えるかが大事なんじゃないかな」と言ったの。それが頭にずっと残っていたから、無意識のうちにその視点で『敗戦後論』を読みなおしたんだと思う。
小川 全然おぼえてない(笑)。そんなこと言ったのか。
長瀬 いい話でしょ(笑)。
小川 美しいまとめになった(笑)。『僕と「先生」』は加藤典洋の方法論と長瀬くんの書き方がうまく重ねあわされていてとても面白いと思ったけど、これは一生に一度しか書けない本だよね。長瀬くんが今後何を書くのか楽しみなんだけど、一つアイディアを出していい?
長瀬 アイディア?
小川 長瀬くんは俺の一次情報、けっこう持ってるじゃん。だから俺が死んだら『僕と小川哲』を書いてよ(笑)。
長瀬 待って待って。何歳でそれ書くことになるんだ(笑)。
小川 俺より長生きして、それまで蓄えた一次情報を使いながらおもしろい批評を書いてください(笑)。
(2026年9月13日、大盛堂書店にて)
大好評発売中!

小川哲さんの新刊『屁理屈と哲学』の詳細はこちらから。
長瀬海さんの新刊『僕と「先生」』の詳細はこちらから。

お気に入りに追加すると、よみタイの記事がGoogleで見つかりやすくなります。
![[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント](https://yomitai.jp/wp-content/themes/yomitai/common/images/content-social-title.png?v2)











