2022.4.11
『メタバース さよならアトムの時代』は新世界の予言書である【能楽師・安田登 書評】
デジタルの世界が「主」となり、フィジカルな世界が「従」になる
さて、書きたいことはたくさんあるが、与えられている字数は多くはない。最後に最終章である「メタバースの未来と日本」について触れておこう。
最終章では、まずメタバースの未来を見つめている。
身体や物質、すなわちアトムの束縛から解き放たれた人間は、クリエイティビティをどんどん発揮するようになるという。それも物理世界では原理的に不可能な創作活動、かつてないようなコラボレーションが可能だというのだ。
これは私も実感している。
2020年に、博報堂内のラボのプロジェクトとして、チューリッヒのユング研究所でシュメール神話を上演するためにスイスに行った。しかし、コロナの影響で直前に州知事から中止命令が出た。でも、そのままでは終わりたくない。そこでクラスター内にVRカウンセリングのためのワールドを作った。
すると、家から出ることができずにカウンセリングや精神科に通えなかった人たちが、このワールドで精神科医や臨床心理士のカウンセリングを受けることができるようになった。将来的には同時通訳機能を使ってユング研究所の人たちとのコラボレーションをするために、いま準備中である。これはクラスターというメタバース・プラットフォームがなければできないことだった。
また、別のワールドに小学生と落語家が同時に居合わせたことがあった。小学生が落語を語り始めた。落語家が小学生の落語を聞いて拍手喝采した。これもアバターだから可能だったことであろう。
加藤氏は、デジタルの世界が「主」となり、フィジカルな世界が「従」になる、そんな世界を考えると面白いという。そうすればひきこもりなんて言葉もなくなり、不登校なんて言葉もなくなる。貧富の差も減り、他人との関わりで苦しむ人も減るだろう。
妄想力=脳内AR
最終章のもうひとつのテーマは「日本」である。
いまはアメリカが先導するメタバースであるが、日本はメタバースをけん引する可能性を持ち、そしてそれによって今の日本の状況をも打破する可能性があると加藤氏はいう。
そこで加藤氏の提示するキーワードが「妄想力」である。
私はこれを脳内ARと呼ぶ。
能を観る人で、その場に存在しない「月を見た」とか「波音を聞いた」という人は多い。脳内で生まれた月や波音を、能舞台に映写しながら能を観る。これが脳内ARだ。能は、観客のその能力を期待して舞台上に何も置かないという選択をあえてする。
枯山水の庭もそうだ。それを眺める人がそこに映写する表象を邪魔しないように、あえてシンプルな形にする。加えてそこに映写するのは具体物、すなわちアトムではない。「真の自己」というような、具象化できない抽象をも映写する。
そろばんの暗算を習ったことのある人ならば、空中にそろばんを置いて、そこで計算をするという技の存在を知っているだろう。あれも脳内ARである。
日本人は脳内AR、妄想力に優れている。
そしてゲーム開発に優れた日本人は、ゲーム産業のスキルセットを持っている(私も90年代にプレイステーションのゲーム製作に関わった)。また、アニメなどの知的財産も持っている。それは、偏在する神、遍在する魂を持つメタバース的心性を日本文化に由来する。
そして、物理法則なんて完全無視のメタバース世界を地でいく『ドラえもん』を有する。鉄腕アトムは科学の力で物質界の未来を見せたが、その後ドラえもんの登場によって物質界・物理界を超えるにいたった。子どものころから『ドラえもん』によってメタバース世界英才教育を受けている日本人は、それゆえ世界をけん引するだろうと加藤氏は締めるのだ。
「さよならアトム。ハロー、ドラえもん」だ。
新たなOSの上に書かれた、新世界の予言の書
時代を変える本というものがある。古くは『論語』、あるいは『聖書』、またさまざまな仏典などがある。聖典と呼ばれる。それらを生み出したのは“文字”の発明であった。それまでは消え去ってしまっていた私たちの思考の跡を、“文字”というツールによって紙などの二次元空間に定着させることによって生み出された新しい世界。それは「時間」や「心」や「信」などを生み出し、私たちの生活のOSとなった。そんな新しい世界の予言の書が『論語』などの聖典である。
私たちはいま、あらゆるものを二次元に微分する“文字”を超えるものを手に入れつつある。アトムを超えたメタバースを新たな生活のOSとして身に付けつつあるのだ。
ちょっと大げさな言いようにはなるが、加藤直人氏の『メタバース さよならアトムの時代』は、新たなOSの上に書かれた、新しい世界の予言の書として『論語』などの聖典と同じ力を持つ本になるのではないだろうか。
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