2024.12.19
写真家・藤井保を訪ねて島根・石見銀山へ。東京・祐天寺から“ほぼ発売日”に『海と生きる』を届けに行ってみた。
書籍では全10作のカレンダーの撮影を担当した10名の写真家全員を取材したのですが、そのひとりが広告写真界の巨匠・藤井保さん。藤井さんは現在、島根県大田市にお住まいのため取材はリモートにて。その時に交わした「著者自ら見本を届けに行く約束」を実現した旅エッセイをお届けします。
(文・撮影/唐澤和也)
リモート越しの約束
「書籍が完成したら、島根までお届けにあがりますよ」
島根県と東京都を結んだリモートでのインタビュー終わりで、そんな言葉をさらりと口にしたのは担当編集だった。2024年3月8日のことだ。パソコン越しにインタビューしたのは、写真家・藤井保さん。書籍『海と生きる』では『気仙沼漁師カレンダー』の撮影を担当した写真家10人全員に話を聞くと決めており、藤井さんは同カレンダー1作目の写真家である。震災後の爪痕がまだ残っていた2012年11月から気仙沼市へ通うこと7度。その成果である『気仙沼漁師カレンダー2014』は、全国カレンダー展で最高賞である経済産業大臣賞を獲得した。現在の藤井さんは、生まれ故郷の島根県大田市にアトリエを構えている。
僕はといえば、『気仙沼漁師カレンダー』の2作目から10作目までのライターを担当していた。9年間で、のべ120名ほどの漁師や漁業関係者にインタビューを重ねていたが、藤井さんが撮影を担当した初回のことはまったく知らなかった。大谷翔平ら日本人選手が活躍するメジャーリーグの扉をこじあけた野茂英雄というパイオニアが偉大であるように、のちに10年も継続する『気仙沼漁師カレンダー』の礎を築いた藤井さんの功績も計り知れない。御年75歳、巨匠にして現役の写真家である。
そんな巨匠に、軽やかな口調であっさりと約束したことがおもしろかった。ただし、この言葉が軽やかだけれどチャラくないことを僕は知っていた。担当編集とはかれこれ30年近い付き合いだからだ。これは、本当に行く気のやつだ。僕としても、歴代10人の写真家で藤井さんだけは直接お会いしたことがなかったから、ぜひとも「お届けにあがって」いろいろとお話ししてみたい。お届け旅、おもしろそうだ。
もちろん、まずは本編である。写真家、漁師、プロデューサー、そして、このカレンダー作りの心臓であり、漁師と地元を愛する「気仙沼つばき会」の女性たちへのインタビュー後、書いて、書いて、書いて、『海と生きる』が完成する。
偶然にも発売日は鳥取大学の講義
島根県へと旅したのは、発売日翌日の2024年11月27日だった。同日正午頃。担当編集と待ち合わせをした島根県の出雲市駅は雨が降っていた。待ち合わせが東京の羽田空港などではなく島根県の駅だったのは、ちょっとした偶然からだ。
1年ほど前のこと。ある雑誌の取材で、僕は鳥取県の智頭町を訪れていた。取材でお世話になった方々との親睦会で「小学生にインタビュー教室とかやってみたいんですよね!」と酔いに任せて熱く語り始めた僕に「大学生じゃダメですか?」と熱く返してきた人がいた。鳥取大学の大元鈴子教授だった。酒席での戯言では終わらずにシラフでも打ち合わせが続き、単位がとれる正式な講義として2023年11月に「インタビュー概論」がスタートする。そして、2年目となる2024年の講義が、偶然にも『海と生きる』の発売日当日、すなわち11月26日に決まったのだった。
鳥取県と島根県はお隣りだ。近い。
というわけで、2024年11月27日の朝8時9分。昨夜ごちそうになった「親ガニ」の感動を舌に残しつつ、僕は鳥取県の智頭町駅から島根県の出雲市駅を目指していた。いくつかの乗り継ぎを経て、到着したのは12時7分。特急も使ったというのに、朝の旅立ちからなんと約4時間である。鳥取県と島根県はお隣りではあるが、近くはなかった。担当編集と合流し、レンタカーで藤井さんのアトリエを目指す。
原点は高校写真部の暗室
藤井さんのアトリエは、江戸時代の街並みが残る通りに面した日本家屋であった。世界遺産の石見銀山で有名な町だ。降りしきる雨もなんだか趣があるように感じられる。「いつ〝来銀〟されるのですか?」と送られてきた藤井さんのメールには駐車場の位置が記されていたのだがどうにもわからず、車から降りてアトリエを訪ねた。すると藤井さんは、口頭で済ませるのではなく、雨に濡れながら、わざわざその場所がわかるところまで連れて行ってくれた。
東京・祐天寺の事務所から持参してきた『海と生きる』を手渡しする。
静かに受け取り、じぃっと表紙の写真を見つめている藤井さん。次に扉写真を見つめ、それに続くカラーの写真を一枚一枚じっくりと眺めてからページをめくっていく。その視線に批評めいた色は含まれておらず、写真が好きで仕方のないことが伝わってくる。「これ、いい写真ですね」とつぶやいたりもする。
メールで使われていた〝来銀〟という表現が気になって、「地元の人は〝来日〟みたいに〝来銀〟っていうんですか?」と聞いてみると「ううん、僕だけ」といたずらっぽく笑う。藤井さんが生まれたこの町は、決して都会ではない。「なのになぜ、写真家になろうと思ったのですか?」と続けてみる。
「高校の写真部だったんだけど、コンクールで1席を2回もらったんです。それがうれしくてね。写真部の暗室で写真を焼いていると、バットに沈めた印画紙からふわっと映像が浮かび上がる瞬間に毎回感動していたんですよ。夢中になって撮って、夢中になって現像して、暗室から外に出るといつも真っ暗で学校にはもう誰もいなかったな(笑)。いまでも水(現像液)に入ってる写真が、この世で一番キレイだと感じます」