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フィギュア日本人初五輪メダリスト、伊藤みどりがパリで見せた伝説のフリー

空前絶後の高速スピンを見せたルシンダ・ルー

 ルシンダ・ルーという選手がいました。彼女はスイスの出身で同国の代表として1999年の世界選手権にも出場していますが、4歳から17歳までを日本で過ごし、佐藤信夫コーチのもとでフィギュアスケートを学んでいました。
 彼女の演技を表現するならば、圧倒的な「スピンの美しさ」という一語に集約されます。まず、スピンの速度が常軌を逸したといえるもので、1分間で115回転という記録はギネス世界記録にも認定されています。そもそもスピンの回転が速いということは、氷の上の同じ位置で回り続けなければ実現できないものです。
 つまり、フィギュアスケートの基本技術そのものが非常に高いレベルにあったことを示しています。一時期、浅田真央のスピン専任コーチも務めただけあって、その技術は正確そのもの。そして、同じ位置で回り続けることによって、繊細な手指や首の動きが造形美のように表現されるのです。

 現役引退後に日本のバラエティ番組にも出演し、1分間で81.45メートルのトイレットペーパーを巻き取るという記録も作った彼女は、空前の「フィギュアスケート・ブーム」といわれる現在、インターネット上でも改めて注目されているようです。検索すると99年の世界選手権での演技も見ることができます。

 そのスピンは、やはり圧巻です。
 また、表現力も、幼い頃からフィギュアスケートと並行して、というよりもスケートのためにバレエで研鑽を積んできただけあって、観衆を興奮させるに十分以上のクオリティを備えています。高速で回転しながら手指を優美に動かす彼女の演技は、まさに生きた芸術品でした。観客席から大きな歓声が上がるのも当然の反応です。
 そして、ステップの技術も基本に忠実で正確そのもの。しかし、この〝スピンの絶対王者〟が世界選手権に出場したのは、この一度きり。そして、このときも成績は13位という凡庸なものでした。なぜ、スピンに関しては世界最高と断言していい彼女が、このような成績しか残せなかったのか。その理由も「たかがジャンプ、されどジャンプ」にあるのです。

 ルシンダはジャンプが極めて苦手でした。この世界大会のフリーでもジャンプを失敗して転倒しています。もしかすると、幼少の頃にジャンプを失敗して、恐怖や苦痛を体験したのかもしれません。そういった記憶が後々まで、トラウマのようにアスリートを苦しめ続けた例は数多く存在します。そして、そのいっぽうで彼女は、幼少の頃からスピンが大好きだったはずです。それは、みどりがジャンプを成功させる快感に魅了され、そのためにフィギュアスケートを続けたのと同じことでしょう。そして、みどりがコンパルソリーを苦手としていたように、ルシンダもジャンプを苦手としていたのです。

 しかし、ルシンダの時代もいまも、スピンの得点はジャンプに比べると低めです。現在のルールでは、スピンでもっとも高得点を得られる「足換えありのスピン・コンビネーション」でも基礎点は3.50。3回転ジャンプでもっとも難易度が低いトウループの4.20よりも低い数字です。これが、99年の世界選手権でも、スピンだけを見れば明らかに世界最高のレベルを示しながら、最終的に彼女が13位という成績に終わった理由なのです。

パリで見せた伝説のフリー演技

 日本のメディアでは、みどりのキャリアの頂点としてアルベールビル五輪の銀メダルを取り上げる傾向が強いといえるでしょう。しかし、このときは、みどりもジャンプを失敗し、また金メダルを獲得したクリスティー・ヤマグチもジャンプを失敗しています。ジャンプを武器に世界に挑んだ彼女のピークをここに定めることには、わたしは納得できません。わたしのなかで、みどりの頂点といえる演技は、やはり優勝を飾った1989年の世界選手権・パリ大会。それは文字通り、世界のトップに立ったことを示す圧倒的な演技でした。

 前述の通り直前の全日本選手権、コンパルソリーで初の1位を記録していたみどりは、このときも自己最高となる6位に入ります。さらに、オリジナル・プログラム(現在のショートプログラム)では1位となって暫定3位のポジションで、勝負を決めるフリーの演技に入ります。また、すでにトリプル・アクセルも公式の大会で成功させていて、当時の女子では彼女だけが持つ武器でした。あとは、それを世界選手権という舞台で成功させるだけです。

 まず見せたジャンプは、3回転ルッツ。現在のルールなら5.90の基礎点がGOE+5の満点の評価を得て、8.85に加点されるはずの完璧な演技です。いや、技術の完成度としてはそれ以上の評価を与えたくなるほどのジャンプ。着氷も完璧です。スケーティングも落ち着いた状態で正確な技術を表現していきます。
 そして、そこから世界選手権では女子初となるトリプル・アクセルへ。着氷が乱れましたが、みごとに成功させます。開催地・パリの会場を埋め尽くした観衆から割れんばかりの拍手が沸き起こります。なにより、ジャンプを成功させたときの彼女の表情が忘れられません。子どもの頃から何度も、いつもジャンプを決めるたびに見せてきた、あの天真爛漫な笑顔が弾けたのです。

 ここから、みどりはギアを1段上げたかのように、自慢のスピードを発揮しながらリンクのサイズをフルに使って完璧な演技を見せます。スローパートでもループ・ジャンプを織り込んでアクセントを加えながら、コンパルソリーの成績を着実に上げてきたことで証明された彼女の正確な技術を丁寧に披露していきます。
 そして終盤の3回転トウループを2回続けたコンビネーション・ジャンプ。こんなジャンプは、当時の選手たちにはマネできなかったでしょう。天性の身体能力が抜きん出ているのは間違いありませんが、1回目のジャンプを完璧な技術で跳び、正確に着氷しているからこそ実現できるコンビネーションです。1回目のジャンプをトウからエッジへとセオリー通りのプロセスで着氷しています。さらに、その時点で身体が伸び切ることなく、次のジャンプへのエネルギーとして腰の捻りを残した姿勢を
保っているからこそ、コンビネーションの2回目のジャンプも力強く成功させることができたのです。
 解説をしていた平松純子さんが思わず「うわぁ! 素晴らしいッ」と感嘆の声を上げたのは当然の反応でしょう。

 情熱的なスピンで演技を締めくくり、リンクサイドで声援を送ってくれていた関係者に挨拶をしている彼女の耳に、技術点を伝える構内アナウンスが響きます。9人のジャッジのうち、当時の満点である6.0を出したのが5人。残りの4人も5.9の評価を与えたのです。どんな競技でも完璧なパフォーマンスは存在せず、つねにそれを追い求めるのがアスリートだと思いますが、この日、パリで見せた伊藤みどりの演技は、完璧に限りなく肉薄したパフォーマンスでした。

 それがわかっているパリの観衆は、足を踏み鳴らしながらスタンディングオベーションでみどりを讃えました。92年のオリンピックで金メダルを獲得するクリスティー・ヤマグチも、この時点では世界選手権を制していません。アジア系の選手で初の世界選手権制覇。ジャズがアメリカではまだ黒人の音楽としてしか認識されていなかった時代に、すでにその普遍的な美しさを理解していたパリで、みどりが世界に認められたことには歴史の巡り合わせすら感じます。
 自分の得点を知ったみどりは、しゃくり上げるように涙を流しながら山田コーチのもとに帰ってきます。これほど胸を打つアスリートの涙を、わたしはほかに知りません。自分のすべてを出し切った選手だけが流す涙だったと思います。

(了。文中一部敬称略)

フィギュアスケート観戦をよく深く面白く!

伊藤みどり、荒川静香、安藤美姫、浅田真央、高橋大輔、羽生結弦、宇野昌磨、鍵山優真……日本フィギュアスケートを世界の頂点に導いた裏には、日本人ならでは特性を生かした高度な技術「ジャンプ」という武器があった――。スケート連盟強化部長・国際審判員として長く舞台裏で活躍してきた著者が記す、日本フィギュアスケートの技術の歴史書。

書籍『たかがジャンプ されどジャンプ 日本フィギュアスケートに金メダルをもたらした武器』の詳細はこちらから

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新刊紹介

城田憲子

しろた・のりこ●1946年東京都生まれ。フィギュアスケート女子シングルおよびアイスダンスの選手として活躍。全日本選手権アイスダンスで2連覇。引退後、94年から2006年まで日本スケート連盟フィギュア強化部長を務める。
06年トリノオリンピックでは荒川静香の日本初の金メダル獲得を牽引。ISU(国際スケート連盟)レフェリー・ジャッジの資格を持ち、長年にわたりオリンピックや世界選手権などで審判員も務めた。

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