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「ウッドショックは希望の光」紀州の林業王が語る、国産木材への思いと林業の未来

所有する山を社会に還元することが使命

――東京ではどのような学生時代を?

成蹊高校では美術部に入って、熱心に活動していました。「美術手帖」という雑誌を毎号買って、隅から隅まで読むほど美術が大好きだったんです。美術の先生からは「美大に進むのか?」と聞かれたのですが、将来のことなどを考えて、早稲田大学の政治経済学部に進学しました。所属していた「政治経済攻究会」のサークルには、のちに日銀や経済企画庁などで活躍することになる優秀な仲間も多く、刺激を受けました。

――榎本会長も、一度他の企業に就職するという選択肢はなかったのでしょうか。

大学の成績はほぼ「優」でしたし、入ろうと思えばどこでも入れたとは思うのですけどね。勉強が好きだったので、大学院で経済学の研究を続けようかという思いもあったんです。でも、大学1年の時に祖父が倒れて、祖母が「長治が跡を継ぐよ」と言ったら、病床の祖父がとても喜んだという話を聞いて、家業を継ぐ決意が固まりました。
それで、家業の林業を学問的、体系的に知るために、東京大学農学部林学科造林学教室の研究生になったんです。早稲田では経済学を学んでいたこともあり、林業経済学にも興味を持って学んでいました。私の関心は、単に木の値上がりを待つ地主的な林業ではなく、所有している山を育て、労働者を雇用し、技術革新を進め、どのように資本主義的に家業を回していくか、ということでした。地元に帰ったのは25歳の時です。

榎本会長の先祖が残した「山林収利簿」。山で育つ木々1本1本の履歴が残されている。
榎本会長の先祖が残した「山林収利簿」。山で育つ木々1本1本の履歴が残されている。

――まさに今、会長が事業として取り組んでいらっしゃることですね!

そうですね。当時から、木を育て、社会に還元していくことについては、とても関心があったんです。幼い頃から、家に山の世話人たちがたくさん出入りしていましたし、祖父がタバコをふかしながら帳面を持って、山の世話人から山の様子を聞いて書き留めているところなどを、間近で見てきました。だから、今の山がどのようにして出来上がったのか、感覚としてわかるんです。その出来上がった木と山を、いかに社会で役立てていくか、それを担うのが僕の宿命であり使命だと思っています。それは、若い時も、家業を継いで25年経った今も、変わりません。

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