2021.11.28
ノンフィクションは人生の色彩を描き出すもの――作家・石井光太さんの座右の書『忘れられた日本人』
悲しみや悪だけではない人生の“多彩さ”
僕が本書から得たのは、対象となる個の目線に立つだけで、人生がこんなにも豊かになるのかという驚きだった。普段はつい自分のフィルターを通して白黒つけがちだが、個の目線に立つと別物のように色彩豊かになる。
それに気づいた時、僕が『もの喰う人びと』に惹かれたわけもわかった。あの本が描いているのは、戦争や貧困の悲しみだけではない。そこに生きる人々の人生の色彩なのだ。
僕が世界をどういうふうに見て、何を描きたいかをはっきりと自覚したのは、それからだった。大学卒業を迎えた僕は、先述のスズキナオ君らと祝賀会で一杯やった後、海外へ飛び出した。そして主に途上国を巡り、物乞いをする障害者たちと一緒に過ごし、その人生の色彩をデビュー作『物乞う仏陀』で描き、物書きになった。
とはいえ、人生は長く、これでメデタシというわけにはいかない。
次々と本を出していると、新聞のインタビューやらテレビの報道番組やらに引っ張り出され、「世界の問題にご意見を」とか「課題解決の道筋を」などと言われるようになる。頭が良いわけでもないのに、ペラペラとしゃべっているうちに、高みから俯瞰して社会全体を語ることに慣れてしまう。そうなると、人生の豊かな色彩がなかなか見えづらくなってしまう。
僕が仕事場の机の横に『忘れられた日本人』や『もの喰う人びと』を置き、折に触れて読み返すのはそのためだ。自分は何に心を動かされて物書きになったのか、世の中を見る上で大切にするべきなのは何なのか。今でもそうやって立ち位置を確認している。
おかげさまで、初めての海外取材から二十年の歳月が経ったが、僕は一度も病んだことがない。それどころか、取材で人に会えば会うほど、人生とはこんなにもたくさんのものに彩られているのかと教えられる。だからこそ、人生の中から悲しみや悪だけを抽出して世を嘆いたり、批判したりするより、すべてがごちゃまぜになった多彩さを見つめたいと思う。それが本当の意味で人生や世の中を見るということだと信じるからだ。
こんなことを書いていると、次のように言われるかもしれない。
「普通に生きてたら、そんなふうに人に会って話を聞けることなんてないですよ」
そう。だからこそ、世の中に本があるのだ。
金儲けの秘訣が書かれたビジネス書や、生き方を決めてくれる占い本もいいが、ノンフィクションを通して人間が持つ豊かな色彩に触れてみれば、灰色だと思っていた世の中がいろんな色に輝いていることに気づくだろう。
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