2021.11.28
ノンフィクションは人生の色彩を描き出すもの――作家・石井光太さんの座右の書『忘れられた日本人』
前回は、学びのデザイナー・荒木博行さんが折に触れて読み返している本をご紹介いただきました。
今回は、ノンフィクション作家・石井光太さんが若かりし頃に読み、強い影響を受けたという名著をご紹介します。
貧困、難民、障害者、戦争、児童虐待、少年事件、災害、暴力団、難病……。
これまでノンフィクションを中心に、こうしたテーマの本を五十作以上世に送り出してきた。社会の暗部を描いているためか、必ずと言っていいほど尋ねられる質問が次だ。
「こんな重たいテーマばかり追って、どうやって精神状態を保っているのでしょうか」
重量級の本を年間に四冊も五冊も怒涛のように書いているので、読者には「狂気の人」か、「病んだボロボロの人」と思われているのだろう。
が、僕はいたって健康で、明るく能天気で、普段はまじめな話なんて一切しない人間だ。この特集企画の第一回に登場するスズキナオ君とは大学の同窓生なのだが、僕の方が10倍明るい(笑)。
で、なぜ病まないのかについてだが、答えは簡単で、僕が文章を書くのは社会の暗部を見たいからではなく、そこで生きる人間の力強さや命の輝きに触れたいと思っているからだ。
眉間にしわを寄せて貧困問題を論じたいのではなく、夜の路上でストリートチルドレンたちが残飯を食べながらサッカーをする姿を見たい。戦争を批判したいのではなく、浮浪児たちがパンパンやヤクザや傷痍軍人と手を取り合って生き抜く姿を見たい。闘病の過酷さを記録するより、小児病棟の患者同士が手を励まし合ったり、恋愛したりする姿を見たい。
ノンフィクションの書き手の多くは暗部を見つめることに重きを置いているけど、僕は荒波の中をかいくぐろうとする人たちの生きる姿に惹かれる。つまり、暗闇ではなく、その中にある光に関心があるのだ。
暗闇の中の光を探すことの素晴らしさを教えてくれた本がある。『忘れられた日本人』(宮本常一)だ。
僕は高校時代に辺見庸さんの『もの喰う人びと』を読んで、海外ルポに漠然とした憧れを抱いていた。この本は、戦争、貧困、差別など世界の様々な問題の渦中に生きる人たちを「食」を通して描いたルポなのだが、当時は自分が目指すことが明確にはわからなかった。
そんな時に出会ったのが、『忘れられた日本人』だった。民俗学者の宮本常一が日本の辺境を歩き回り、そこで出会った人々の生きる姿を克明に記録したもので、中でも名高い一篇が「土佐源氏」だ。
このエピソードは、宮本常一が高知県の川沿いの橋の下にあった、「乞食小屋」で生きる老人と出会うところからはじまる。全盲の彼は老いた妻と二人暮らし。ボロをまとい、やせ細っている。そんな彼が淡々と語る人生が書きつづられる。
彼は、未婚の母親と、夜這いに来た男の間に生まれた私生児だったという。極貧の中で育ち、学校へも行けず、馬喰という牛の世話をする低い地位の仕事をして生きてきた。それだけ聞けば悲しみに満ちた灰色の人生だが、彼は生きる中で体験した子供時代の性的な戯れ、牛への限りない愛情、大人になってからの村人との色事などを活き活きと語る。僕は読み進めていくうちに、彼の人生が虹色に輝きだすのを感じた。