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真っ赤なスパゲッティとサイフォンのコーヒーは家族の思い出とともに~鎌倉育ちの作家・甘糟りり子が愛する「カフェ ロンディーノ」秘話

ナポリタンじゃなくて赤いスパゲッティ サイフォンで淹れたコーヒー

書籍『鎌倉だから、おいしい。』の中でも、甘糟さんはこちらのカフェ ロンディーノのことを、自身の少女時代の思い出とともに綴っています。

 朝が苦手なのは子供の頃からである。というより、子供の頃から夜が好きだった。夜になると、今日がずっと終わらなければいいなあと思う。畳まれていく一日を名残り惜しむのが心地良かった。
 中学生になると、布団にくるまってラジオの深夜放送を楽しみ、窓の外の空が白っちゃけてくるのを見るのが日課となった。そんなふうだから、朝が弱くて、しょっちゅう遅刻をした。学校からも度々注意を受け、母は大変だったと思う。毎朝なかなか起きない私の腕を引っ張って起こし、朝ご飯を食べさせる。稲村ヶ崎駅七時四十八分発の江ノ電に乗らなければならないのに、七時半になってもまだパジャマでご飯を食べているという体たらく。
 ある朝、母が叫んだ。
「もう、ご飯はあきらめなさいっ。一回ぐらい朝ご飯を抜いたって、死にゃあしない。自分が悪いんだから」
 私は渋々、一口だけでご飯茶碗を置いた。
 まだぼんやりしている頭のまま江ノ電に乗った。頭はぼんやりなのに、空腹の感覚だけは鮮明だった。鎌倉駅西口に出たとたん、お腹がぐうっと鳴った。学校への道から外れ、ロータリーの左側にある「ロンディーノ」に向かった。朝、八時から開いていて、出勤前のサラリーマンもよく利用する。
 薄く潰した学生鞄とスヌーピーが描かれたトートバッグを抱え、店に入った。注文はトーストとブレンド・コーヒー。一人で外食をするのは生まれて初めてだった。店内はスーツの人やジーンズ姿の人で埋まっていて、たいてい一人だった。学校の制服なんか着ているのは私だけだ。最初は緊張したけれど、こげ茶色に焼かれた厚めのトーストが運ばれてくるとそんなものは吹っ飛んだ。表面にはバターがたっぷり染み込んでいる。かぶりつくと、お腹と心がバターで満たされた。バターってすごい。

読むだけで垂涎もののバタートーストは、本書のために描き下ろしてくださった阿部伸二さんのイラストがこれまた食欲をそそります。
 

 
 

こんがり厚切り食パンにたっぷりバターは不変の美味しさ
こんがり厚切り食パンにたっぷりバターは不変の美味しさ

そして、くだんの「スパゲッティ」については、

その名も「スパゲッティ」という名物メニューがある。具は薄くスライスしたマッシュルームだけ。それをケチャップとミートソースで絡めてある。ナポリタンのようにはなやかではなく、潔いほどシンプルで、そこが気に入っていた。
 ある時、急いで食べて、制服の白いシャツに赤い染みを作ってしまった。先生に、学校に来る前にロンディーノに寄っていたことがバレるのではないかと不安になった。
 大人になった今でも、時々、この赤いスパゲッティを頼む。焦がしたケチャップの酸味とミートソースのほのかな甘みがそれぞれ独立していて、心の中で溶け合うのだ。甘酸っぱいというのとはちょっと違う。食べる度に学校をさぼった時の気持ちを思い出す。グルメとか美食などといわれるものとは違うけれど、記憶が重なって成り立つ格別の味覚だ。

と綴られ、この後は懐かしいお父様のエピソードへと。

自分の思い出に寄り添うお店が消えてしまうのは本当に悲しいもの。
けれど、甘糟さんにとって思い出の置き場所が復活したことは、他の多くのロンディーノファンのみならず、これから鎌倉を訪れる人々にとっても、このうえなく幸せなことでも。
初めての人も、再会を祝う人も、いつかぜひカフェ ロンディーノへ。

鎌倉散策の参考にも。甘糟さんによる「読むグルメ」

『鎌倉だから、おいしい。』は、甘糟さんが鎌倉の美味と思い出を綴ったエッセイ集です。
鎌倉ならではの風情を感じられる名店が多数登場。
ガイドブックやグルメサイトでは絶対にわからない、鎌倉育ち・鎌倉在住の甘糟さんだから知っている魅力的な世界に出会える1冊です。

書籍の詳細は、こちらから

※新型コロナウイルスの影響で、掲載店の営業形態やメニューが変わっている場合があります。最新情報は、公式HP等でご確認ください。

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甘糟りり子

あまかす・りりこ●作家。1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。都市に生きる男女と彼らを取り巻く文化をリアルに写した小説やコラムに定評がある。近著の『産む、産まない、産めない』(講談社)は5刷に。そのほか『産まなくても、産めなくても』(講談社)など現代の女性が直面する岐路についての本や、鎌倉暮らしや家族のことを綴ったエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)など好評発売中。

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