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真っ赤なスパゲッティとサイフォンのコーヒーは家族の思い出とともに~鎌倉育ちの作家・甘糟りり子が愛する「カフェ ロンディーノ」秘話

書籍『鎌倉だから、おいしい。』は、鎌倉で育ち、今なお住み続ける作家・甘糟りり子さんがこよなく愛する当地の美味たちを、春夏秋冬に分けて語るエッセイ集。
鎌倉育ちだから、鎌倉で今も暮らすからこそ知り得た、四季折々の味の魅力やおいしさがが詰まった1冊です。

その中でご紹介した、甘糟さんにとっては特別に思いで深いあるカフェがあります。今回はそのカフェにまつわる、ちょっぴりせつなくて、うれしい気持ちになれるエピソードをいただきました。

馴染みの老舗は実家の両親みたいな存在なのかもしれない

あの日、それとは知らずに店の前を通った。
友人とタイ・レストランでランチを取った後、御成通りを歩きながらコーヒーを飲みに寄ろうか迷って、いくつかの野暮用を思い出し、またねといってそのまま帰った。

自宅に戻りパソコンを開いて、カフェ・ロンディーノがその日限りで閉店と知った。ショックで声が出た。自分しかいない部屋で、嘘でしょ、と何度もつぶやいた。2020年11月30日のことだ。
もちろん『鎌倉だから、おいしい。』でも、この店を取り上げている。家族の思い出がたくさん置いてある店だ。そのロンディーノが突然なくなってしまった。感傷的な気分になった。

「また」は永遠に来ない。もう香ばしいコーヒーの香りに包まれ、「スパゲッティ」を食べることができないのだ。その名も「スパゲッティ」というメニューは、ナポリタンによく似たここの名物。ピーマンも玉ねぎもウィンナーも入っていないマッシュルームだけのスパゲッティだ。プライパンで焦がすように赤いソースと麺を絡めるので独特の香ばしさがある。
 同じ材料で同じ手順で作ってみたとしても、同じ味にはならないだろう。だって、あの煙が入り混じった空気の中で、人々のざわめきとたまに聞こえる江ノ電のアナウンスを BGMに、サイフォンの中でコーヒーが流れていくのを眺めながら食べるのが、「スパゲッティ」だから。

潔いほどシンプルな、その名もズバリ「スパゲッティ」
潔いほどシンプルな、その名もズバリ「スパゲッティ」

閉店を知らせる張り紙には、人手不足のため、とあった。そういえば、少し前に店主がバイトの人とのやりとりの大変さを口にしているのを聞いた。日常の景色を維持するには、私たちの知り得ない苦労があるのだろう。
お正月用の買い出しの際にはここで一息つくのが恒例だったから、昨年末の買い出しでは休憩を取る場所に困った。何かが欠けてしまった気がした。

地元の人々にも長く愛され続けたカフェ
地元の人々にも長く愛され続けたカフェ

年が明け、閉店から時間が経っても私はなかなか受け入れられなかった。御成通りにはよく行くから、店の前を通るとつい扉から窓から店内を覗き込んで、最後にもう一度、カウンターに座ってあの空間を噛み締めたかったなあなどとしんみりしたりもした。薄暗い店内では使い込まれたカウンターに椅子があげられたままだった。窓にはくすんだ自分の顔が写った。
あまりにも暮らしに溶け込んだ店で、ありがたさも忘れがちだった。馴染みの老舗は実家の両親みたいな存在なのかもしれない。
友人知人でも、ロンディーノ閉店にはショックを受けた人がたくさんいた。鎌倉の人はもちろん、都内の友人も残念がった。店は改装も取り壊しもなく、そのままになっているから、朝だけでもみんなで復活させたいね、なんて無責任に盛り上がったこともある。それぐらい、鎌倉及び鎌倉を訪れる人々の生活に染み込んでいたのだ。

先日、御成通りにいたら、ロンディーノの前にトラックが止まっていて、いよいよこの空間がなくなってしまうのかと思ったら、Facebookに再開のお知らせがアナウンスされていた。閉店の時みたいに、さりげなく手短に。ロンディーノの個性だ。
2021年6月7日、席数6から営業再開をした。コロナ禍だというのに最近は観光客も少し増えてにぎやかになってきたけれども、御成通りにはやっぱりロンディーノがなくちゃね。

2021年6月
甘糟りり子(鎌倉より)

サイフォンで淹れる本格的なコーヒーも人気
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甘糟りり子

あまかす・りりこ●作家。1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。都市に生きる男女と彼らを取り巻く文化をリアルに写した小説やコラムに定評がある。近著の『産む、産まない、産めない』(講談社)は5刷に。そのほか『産まなくても、産めなくても』(講談社)など現代の女性が直面する岐路についての本や、鎌倉暮らしや家族のことを綴ったエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)など好評発売中。

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