2020.5.14
皆がコロナと闘う今、夢枕獏から届いた緊急メッセージ2〜【がんばれ格闘技 そして小さな発見 「ささやかながら文芸に力あり」】
今、格闘技界がどのような状況にあるかを、この場を通じて多少なりとも発信してゆけたらと思っています。
私も原稿を書かせていただくことになっておりますので、興味のある方もない方も、お時間があればぜひ。一ヶ月くらいはなんとか続けたいと思っています。
ここを乗り切って、また、格闘技会場で会いましょう。
「がんばれ格闘技!!」
●バナー題字・イラスト/寺田克也(“がんばれ!格闘技“ より)
がんばれ格闘技 そして小さな発見 「ささやかながら文芸に力あり」〜夢枕獏
このところ、仕事のあいまにほろほろと考えているのは、
「我々のやっている文芸、物語というものには、はたしてどれだけの力があるのだろうか」
ということです。
どうなのか。
途中をすっとばして、結論を申し上げれば、
「ある」
ということですね。
どうしてもある。
そう考えざるを得ません。
それは、ぼく自身が、その文芸の力というか、物語の力というか、言葉の力というものに、これまで何度となく救われてきたからです。
もちろん、これは、誰にでも効く万能の特効薬のようなものではありません。人によって効いたり効かなかったり。同じ人でも時と場合によっては、やはり効いたり効かなかったり。
でも、あります。
「ある」
んです。
“がんばれ格闘技”のお願いだけをして、これでおしまいというのもなんですから、その“文芸”のことをちょっと書かせて下さい。
ぼくの場合で言えば、宮沢賢治ですね。
賢治の作品、その中でも詩ですね。
ぼくは、ずっと以前から、日本が世界にほこる三大偉人ということで、
空海、
宮沢賢治、
アントニオ猪木、
この三人の名前をあげてきましたが、そのうちのひとりが宮沢賢治です。
賢治の詩句を、
「天鼓の響き」
と書いた詩人がおりましたが、まったくその通りだと思います。
自然のものは、鳴り響きます。
風でも手でもいい。
自然のものを打つと、響き、響いて鳴りわたります。
心もそうですね。
賢治という現象を打つ。
賢治が響く。
響きわたる。
心が鳴る。
それがそのまま「天鼓の響き」になっている。それが、美しい、時におそろしい、肉が魂ごと持っていかれるような言葉になる。
賢治というのは、楽器のようなものだとぼくは思っています。
ぼくは、病気です。
言葉を書く、物語を書かずにはいられないという病気です。
毎日物語を書いて、飽きません。
無人島でも書く、地球で最後の人間になっても書きます。これは、ほんとうのことです。賢治もそうだったんだと思います。
西行の物語を書いていて、わかったことがあります。
西行というのは、日本人が桜を愛でる時の、その愛で方の基本的な感性のようなものを、意図せずに、この世に造ってしまった人ですね。平安時代という巨大な桜が、花吹雪となって散ってゆくのを見とどけるために、天がこの地上につかわした人物が西行であると思っています。
西行──
ねがはくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
という歌を詠んでいます。
そして、この歌の通りに亡くなった方ですね。
その西行のことを物語に書きました。
十年かかりましたが、そのラスト近くで、西行が、
「もう、自分は歌を作らなくていい」
と決めるんですね。
でも、作らぬと決めても現象に出会う────つまり、打たれると西行は響いてしまうんですね。
響けば、その響きがそのまま歌になっている。
それが西行です。
そうなってくると、歌を作る、作らないと自分で決めることが、どれほどおろかなことかわかるわけですね。
心が響けば、そこに歌ができてしまうのですから。
それを書きとめるか書きとめないか、それはもうどちらでもいいんですね。
西行は、そのことに気づく。
ぼくが、無人島でも書くというのは、そのくらいの意味です。
作品は、音楽であれ何であれ、人に向けられて発信されるものですが、最後の最後では、それは、自分に向けられたものなんですね。
それが違うというのなら、神でもいいんです。
作品は、神への供物です。
そうでないのなら、それはもう、風や水のように、自然のものとして、宇宙にただようものですね。
そういうものでいいんですね。
ぼくの場合は、物語です。
人間というのは、いえ、脳というものは、どうしても物語を作ってしまうようにできている。
人間の社会というものは、まさしくそういう物語、ファンタジーによって支えられています。
たとえば、
「実際の物と金銭とを等価交換できる」
というお金の持っている虚構、物語が、ぼくらの社会を支えているのですね。
漢字は、一文字ずつが物語、“神話”です。
ぼくらは間違いなく、今も昔も、神話、物語の中を生きているのだと思っています。
今回、ぼくに響いた宮沢賢治の詩がふたつありますが、そのうちのひとつを、ここに紹介させて下さい。
告別 (作品第三八四番)
おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴つてゐたかを
おそらくおまへはわかつてゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだらう
泰西著明の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくつた管とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村の一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとどまるものではない
(ひとさへひとにとどまらぬ)
云はなかつたが
おれは四月にはもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音が正しい調子とその明るさを失つて
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いいかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい
いやあ、泣けるなあ、これは。
もう一度、呪文のように、祈るように唱えておきたい。
「文芸に力あり」
二〇二〇年五月八日
「がんばれ!格闘技」には夢枕氏も寄稿中。
ちょうど本日14日公開の最新エッセイのタイトルは
“『ゆうえんち―バキ外伝―』のこと“。
漫画誌『週刊少年チャンピオン』に連載中の人気漫画「グラップラー・バキ」シリーズの外伝として、格闘小説「ゆうえんち」を連載中の夢枕氏。
「たぶんぼくは、世界で一番、素手の格闘小説を書いている人間だと思う。」
と文中にもあるが、原作の漫画はもちろん、格闘技への深い愛情と思い入れが漲る一文もぜひ。