よみタイ

私が女主人に語った、新人ドライバーのありえない失敗談

「運転手さん、ここ、いったいどこなのッ」

 ヘッドライトを消したとたん、周囲の真っ暗闇のなかにメーターパネルの灯と料金メーターが表示する尋常じゃないタクシー代〈40170円〉が鮮やかに浮かび上がる。思いのほかの暗さにびっくりし、あわててヘッドライトを点灯すると、照らしだされたのは、トタン張りの、畳の大きさにたとえるなら二畳ほどの屋根に覆われたCoca-Colaのロゴが縦書きの赤い自動販売機と、背もたれにヒゲタ醬油のロゴが入ったベンチ、その間に挟まれるようにして置いてある犬小屋みたいな箱だった。それが犬小屋でないのはすぐにわかった。なかの方がごそごそと動いたと思ったら現れて大あくびをしたのは図体のでかい茶トラの猫で、突然のヘッドライトで目が覚めちまったじゃないか、とでも言ってそうな顔をこっちに向けた。〝ねこ駅長〟が浮かんだ。

 路地の右手にはコンクリートの塀があり、どうやら民家らしいが、あたりは真っ暗で、本当にそうなのかはわからない。この狭い道をあと200メートルも進めば松林に至り、そこを抜けた先が鹿島灘の君ヶ浜で、浜に沿って通るのは県道254号線だとカーナビが示している。ためしに縮尺を〈拡大〉にしてみると、いま、自分がいる場所を俯瞰で見る格好になり、関東平野の東の端、九十九里浜と鹿島灘が交わる頂点、銚子の外れの犬吠埼のすぐ横に現在地を示す赤い三角印が表示された。

 どう考えたっておかしい。

「本当にここでいいんだろうか」
「見当違いの場所にきてしまったのかもしれない」

 小さな不安がよぎったとたん、初対面の自分に「タクシーの運転手に向いてないよ」と、洗車しながらぶっきらぼうに言った先輩運転手の言葉が、どうしたわけだか何度も何度も脳裏に浮かんできた。暗闇のなかで不安が膨らんでいく。

 丸の内からずっと眠ったままだった乗客がいつの間にやら目を覚ましていた。何も見えない窓の外を黙って凝視し、こんどは首をひねるようにして、リアウインドウの、やはり何も見えない向こうに視線を向け、そして向き直ると、どうなってるんだ、みたいな顔をしてすっとんきょうな声を上げた。

「ここ、どこッ?!」

「タクシーの運転手に向いてないよ」
 先輩運転手の言葉が、また浮かんだ。
 乗客がしきりに何か言っている。

「運転手さん、ここ、いったいどこなのッ」
「ケミガワハマの駅前までって、俺、ちゃんと言ったよねッ」

映っているのは、世の移り変わりと人の姿

 カウンターに両肘をつけ、頰杖をついた姿勢をいちども崩さないまま、女主人は新人運転手の失敗談の一部始終を聞き終えると、私の手許にあったグラスを引き寄せ、透明な、しかし、いっぱいに入った氷で水滴の汗を流すウォーターピッチャーで水を注ぐのだった。

 タクシー運転手の物語からは、背負ったまま降ろせずにいる彼や彼女の過去が透けて見えると誰かが言った。タクシー運転手に転職した理由は、転職した運転手の数だけあって、千や二千をはるかに超えるそのいくつかだけでも集め並べてみれば、そこに映っているのは、世の移り変わりと人の姿だ、と。

「運転手さんの物語って……」

 女主人は、言いかけて黒革の財布に手を置いた。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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