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南和行「離婚さんいらっしゃい」
離婚をめぐるたくさんの悩みやさまざまな葛藤。そこには、夫婦、家族の数だけドラマがある。夫婦関係で悩んでいる人たちが、自分の人生を取り戻せるヒントが得られることを願って……大阪で弁護士として働く著者が架空でつづる離婚をめぐるセミノンフィクション。

第5回 夫が死んでくれないなら(上)

【プロローグ】

前回のサイ子さんは、結婚も合理的なら離婚も合理的。自分でチャキチャキと物事を決めて進めることができる強さのある人でした。しかし現実には、サイ子さんのようにしっかりした判断ができる人ばかりではありません。弁護士はときとしてその判断の後押しをすることもあります。特にDV(ドメスティック・バイオレンス)の被害者の人は、自分で判断する気力を奪われていることも多いので、気力を取り戻すためにも、道筋を示した具体的なアドバイスをしなければなりません。

【トト子の場合】

夫を怒らせてはいけない

 トト子は42才、結婚10年目の専業主婦。小学2年生の娘と夫との3人暮らしだ。夫は国立大学の工学部を出た45才、大手家電メーカーの品質管理部門の課長職。トト子は大学を出て新卒で就職した会社で出会った夫と社内結婚した。
 しばらくは共働きだったが、子供が生まれるときに退職し専業主婦になった。もともと家事は嫌ではなかったし、母親が家にいるほうが、子供にとってもいいだろうと漠然と考えていた。
 毎朝、トト子は夫が起きるより1時間早く起きて、夫の弁当を作りながら朝食の用意をする。トト子のいつもの朝だ。夫はトト子が起こさなくても自分で起きる。それまでには夫の弁当箱を、保冷バッグに入れておかねばならない。そして、夫がダイニングテーブルに座るタイミングで、トーストとコーヒーを並べなければならない。
 このタイミングがズレると、夫は怒鳴る。トーストを食べずに皿ごと逆さにして、グシャッとつぶす。「ホントに、オマエは仕事ができねぇなぁ」と吐き捨てるように言われる。これまで何十回も言われている。トト子はその都度、「自分は本当にトンマなんだろう」と思い、夫が怒ることを予測して行動できない自分を責める。
 弁当ができあがり、食パンをトースターに入れる頃から、トト子の耳はそばだつ。寝室のドアが開く音がしないか、夫の足音がしないか、とにかく夫を怒らせてはいけない。
 あっ、寝室のドアが開く音がした……!
 今日のトト子は、動きが機敏だ。なかなかのベストタイミングでトーストとコーヒーをダイニングテーブルに並べることができた。夫は特に何も言わず、トーストを食べ、コーヒーを飲んで、弁当箱入りの保冷バッグをもって、玄関に向かった。
「よかった……」
 トト子は、音を出さないようにホッと息を吐き、キッチンから「いってらっしゃい」と言う。玄関までお見送りをすると、夫は「ジロジロ見てんじゃねぇよ」と機嫌が悪くなるからだ。トト子は、夫を怒らせることなく、無事に「いってらっしゃい」までたどり着けたことに心の底からホッとする。
「ちょっと来いよ! オマエ、バカか!」
 玄関から夫の怒鳴り声がした。「何が!?」トト子に心当たりはなかった。でも、夫が怒鳴るとトト子は反射的に「私が何か悪いことをしたからだ」という風に思う。トト子が玄関に行くと、玄関の床に、保冷バッグと弁当箱が投げ出されていた。
「今日は本社だって言っただろ! ゴマ油を使ったおかずの弁当箱なんか開けられると思うのか! 恥かかせんのか。バカが! 死ね! 全部、ダメだわ。クソが!」
 夫はすごい大声と早口でトト子を怒鳴ると、投げ出された弁当箱を革靴で踏みつけた。バリッと音がして、プラスチック製の弁当箱の蓋が割れ、そこから肉汁と油がしみ出した。夫はそのまま出かけた。
 そうだった。昨日の夜、夫は、今日は本社で会議があり、弁当は本社の食堂で食べることになると言っていた。トト子は夫の会社の本社の食堂がどんなところかは知らないが、それなら夫に聞けば良かった。「お弁当どうしたらいい?」って。「なぜ私は、気が利かなくて夫を怒らせてしまうのだろう」玄関で立ち尽くすトト子の心臓はドキドキしていた。
 トト子は、肩と腕が自然とブルブル震えるのを感じた。でも、子供が起きる前に、玄関だけでもきれいにしなければ……。
 トト子には、自分が子供の頃に見た光景が思い出される。トト子の母もいつも父に怒鳴られていた。

父が亡くなったときのホッとした気持ち

 トト子の父は母を怒鳴ると、最後は必ず料理に手を上げた。テーブルに並べられた夕食を全部床にぶちまけたり、シチューを鍋ごとシンクに流したりした。父はトト子にも見えるところで、母を怒鳴り、母の料理に手を上げた。
 トト子の父は私鉄の運転手で、怒鳴る以外には家であまり口をきかない人だった。父とどこかに出かけたというような記憶はあまりない。そして、トト子が小学5年生のとき、父は自殺した。人に迷惑をかける死に方ではなかったが、自殺者を出したことが近所に知られた居心地の悪さから、一人娘のトト子と母は、母の実家に引っ越した。
 母の実家も余裕はあったし、父の退職金や保険金もあったので、生活に不自由することはなかったが、トト子にとって父の記憶は、母を怒鳴りそして料理に手を上げる姿がほぼ全てである。
 そして何よりも思い出す感情は、父が亡くなったときに心をよぎった「ホッとした」気持ちだ。「ホッとする」というのは、こういう感情をいうのだと思った。耳をそばだてなくてもいい。肩をこわばらせなくてもいい。緊張しなくてもいい。これが「ホッとする」感覚なのかと、子供ながらにトト子は思った。
 父の葬式の出棺のとき、母の背中すらホッとしているように感じられた。

 トト子は、父が死んだときの「ホッとした」気持ちを懐かしみながら、夫が投げ出して踏みつけた弁当箱を新しいゴミ袋に入れて、キッチンペーパーで玄関を拭いた。少し蓋が割れただけなのに、玄関にはゴマ油と豚肉のにおいがたちこめていた。娘は、学校に行くときに、このにおいに気がつくのだろうか。いや、もしかしたら、今も夫の怒鳴り声を聞いていて、ベッドの中で耳をそばだて肩をこわばらせているのかもしれない。
 夫が死んでくれたら、私は、またあの子供の頃のように、「ホッとする」気持ちを味わうことができるのだろうか。

【弁護士からトト子へ】

あなたはDVの被害者です

 弁護士の中には、離婚したほうがいいのか、しないほうがいいのか、選択に関するアドバイスは絶対にしないという人もいます。しかし私は、選択に関するアドバイスも場合によってはします。
 私は、今回のトト子さんには、いつか自分から、離婚を目指した具体的な行動をとらないといけませんよというアドバイスをします。
 トト子さんの夫の行動は、明らかにDV(ドメスティック・バイオレンス)です。トト子さんを直接に殴ったり蹴ったりはしていませんが、怒鳴られたり、料理に八つ当たりされたりするときのトト子さんの恐怖や緊張感は、暴力を受けるときの恐怖や緊張感と変わりません。また、トト子さんは、DVの被害者であるにもかかわらず、その原因は自分にあると思い込むようになりつつあります。しかし被害者がそのような思い込みを深めると、加害者はますます暴力への依存をしやすくなってしまいます。家庭内での夫婦間の暴力の悪循環は、子供さんへの強いストレスにもなります。
 トト子さんが、男女の情愛を未だに夫に強く持っているとか、どうしても今の夫の子供をまだ産みたいとかでないならば、離婚を前提に家を出ることを考えてみてはいかがでしょうか。
 少なくとも一回は家を出て、夫との物理的な距離をとり、自分自身の受けた心の傷を癒やし、子供さんをストレスから解放してあげましょう。

【トト子のその後】

自分はDV被害者だという発見

 トト子も、夫が怒鳴るたびに「自分が悪い」と思うのはもちろん本当だったが、きっとこれがDVだということも薄々感じていた。スマホで見るネットニュースの見出しに「DV」という文字があると自然とそこに引き寄せられたし、テレビや新聞で「DV」についての話を見聞きするたびに自分も同じだと思わずにはいられなかった。
 でも、仮にそれがDVであったとしても、玄関に散らばった弁当の残骸を情けない気持ちで拭き取ることも、ダメな自分の人生としてシックリくるような気持ちもしていた。
 トト子の心のどこかで「逃げ出したい」という思いがあったのか、娘の手続をしに市役所に行った日、たまたま開催されていた市民弁護士相談に、つい立ち寄ってしまった。
 そして案の定、トト子は弁護士から、夫の行動はDVだと言われ、別居を考えるべきというアドバイスをされた。
 もちろん、トト子はすぐに家を出ることはできない。でも今まで「私が悪い」ということしか思いつかなかったトト子にとって、「自分はここから逃げなくてはいけない」「逃げるのは自分にしかできない」と思ってもいいというのは、新しい発見だった。

(下)に続く

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南和行

みなみ・かずゆき●1976年大阪府生まれ。京都大学農学部、同大学院修士課程卒業後、大阪市立大学法科大学院にて法律を学ぶ。2009年弁護士登録(大阪弁護士会、現在まで)。2011年に同性パートナーの弁護士・吉田昌史と結婚式を挙げ、13年に同性愛者であることを公言する同性カップルの弁護士による弁護士事務所「なんもり法律事務所」を大阪・南森町に立ち上げる。一般の民事事件のほか、離婚・男女問題や無戸籍問題など家事事件を多く取り扱う。著書に『同性婚―私たち弁護士夫夫です』(祥伝社新書)、『僕たちのカラフルな毎日―弁護士夫夫の波瀾万丈奮闘記』(産業編集センター)がある。
大阪の下町で法律事務所を営む弁護士の男性カップルを追った、本人とパートナー出演のドキュメンタリー映画『愛と法』が話題。
・なんもり法律事務所
http://www.nanmori-law.jp/
・南和行のTwitter
https://twitter.com/minami_kazuyuki
・吉田昌史のTwitter
https://twitter.com/yossy_nan

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