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南和行「離婚さんいらっしゃい」
離婚をめぐるたくさんの悩みやさまざまな葛藤。そこには、夫婦、家族の数だけドラマがある。夫婦関係で悩んでいる人たちが、自分の人生を取り戻せるヒントが得られることを願って……大阪で弁護士として働く著者が架空でつづる離婚をめぐるセミノンフィクション。

第5回 夫が死んでくれないなら(下)

【これまでの話】

 トト子さんの夫は、ことあるごとにトト子さんを怒鳴ります。トト子さんの作った弁当の何かが気に入らないと言っては、弁当箱ごと玄関に投げ出し踏みつけるようなこともありました。
 しかしその都度、トト子さんは「私が悪い」と思い込んで解決しようとします。
 そんなある日、トト子さんがたまたま相談した弁護士はトト子さんに、「あなたはDV被害者であり、離婚を前提に別居することを考えたほうが、自分のためにも子供のためにもいい」というアドバイスをしました。
 それまで「私が悪い」ということしか思い浮かばなかったトト子さんにとって、「逃げる」という選択肢は、新しい発見でした。

【トト子の場合】

いつか逃げる日を

 夫から怒鳴られるたび、トーストをグシャッと潰されるたび、そして弁当箱を投げ出されるたび、トト子は、「いつか逃げ出して、ホッとする日」を思うようになっていた。そうなると、これまで朝、肩をこわばらせながらしていたトーストの準備も、耳をそばだてながらしていた弁当の用意も、そこまで緊張せずにできるようになった。
 とはいえ夫が怒鳴ることは、いつまでたっても平気にはならなかった。夫が「バカか!」と怒鳴るごとに、心がビクッとなり、両腕がブルブル震えることは今までと変わらない。それでも「逃げるまでのことだ」と自分に言い聞かせ、その日が来るまで、なんとか生き延びるつもりで堪えた。
 行く先はトト子の実家しかなかった。トト子が小学5年生のとき、父が自殺したのをきっかけに母と二人で身を寄せた祖父母の家である。トト子が高校を出るまで過ごしたその家は、祖父が生きている間に大がかりなリフォームをしたが、祖父母も亡くなって、今はトト子の母が一人で住むだけとなっている。
 トト子は、夫がもしトト子自身に殴る蹴るという暴力をしたら、すぐにでも荷物をまとめて娘を連れて家を出ようとは思っていた。ただ、今のところは「怒鳴る」ことと「料理に手を上げる」という暴力だったから、慌てて家を出るのではなく、娘の学校のことや荷物のことも、ある程度の段取りをつけてからちゃんと家を出ようと思っていた。いずれにせよ小学2年生の娘に、学校を変えさせることだけが申し訳なかった。
 3月、夫が一泊二日の社員旅行に出かけた日、トト子はあらかじめ考えていた段取りで、荷物をまとめて娘と一緒に実家に帰った。家を出ることに未練はなかったが、家に帰った夫が怒り狂う姿を思うと、動悸が激しくなり過呼吸を起こしそうになった。電話が鳴らなくても電話が鳴っているように感じたり、乗り換えの駅の雑踏で夫と同じ年格好の男性を見かけると夫と見間違えたりした。
「いつか逃げ出して、ホッとする日」を思いながら夫の暴力に耐えていたのに、家を出ただけではホッとしなかった。むしろ、今までは怒鳴って料理に手を上げるだけだった夫が、いよいよ体ごとぶつかるような暴力で飛びかかってくるような恐怖を感じながら、トト子は実家に向かった。今まで、実家が遠いことや田舎にあることを面倒くさいと思っていたトト子だが、はじめて実家が不便なことで、夫との物理的な距離ができることに感謝した。

夫が怖い、震えて話せない

 トト子は、実家に帰ること、離婚したいということ、子供の学校はちゃんと手続をするので心配はないということを書き置きして家を出ていた。しかし、社員旅行から帰ってきた夫からはすぐに電話がかかってきた。トト子は夫に電話で怒鳴られると覚悟をしていた。しかし夫は電話では怒鳴らなかった。ただ「明日、会社を休んで、そっちに会いに行く。本当に実家にいるのか」ということを聞いてきただけだった。怒鳴られると思っていたトト子は少し拍子抜けだった。
 そして翌日、夫は実家に来た。トト子とトト子の母親と夫の3人で話し合う格好になった。娘は別の部屋でテレビを見るようにさせた。トト子が言うまでもなく、夫は自分が怒鳴ることや、料理に手を上げることが、悪いことだということをわかっていると話した。管理職になった仕事のプレッシャーが、家で暴力の形になっているというような自己分析までしていた。そして「自分が生活を改善するから、帰ってきてほしい」と言った。
 トト子は、それについて、なんとも言えなかった。というのは、夫と面と向かって話そうとすると、頬が震えるような、喉が詰まるような感じになり、深く呼吸をしながらただ嗚咽するしかなかったからだ。あとで母から夫に「そうだとしても帰るつもりはない」と電話してもらうのが精一杯だった。
 母によると、そのとき夫は「今、会社では、結婚や出産で退職した元社員が、契約社員として復職する制度もあるから、トト子も働いてみたらいい」と言っていたそうだ。
 しかし何を言われても、トト子にはもう無理だった。きっと夫なりに、今、反省し、そして二度とこうならないようにと思っているのは本当なのだろう。しかし問題はこれからのことではないのだ。もうすでに、ダメになっているのだ。だから夫が何を言おうとも、もうトト子には、無理なのだ。
 家を出てたった二日目でも、トト子は「ホッとする」どころか、夫の影におびえ、そして夫と対面すると話さえできないほどだった。トト子は、自分の心と体が、思っていた以上にボロボロになっていることを実感した。もう壊れていたのだ。だからトト子には「帰る」という選択肢は完全になかった。

【弁護士からトト子へ】

心の傷を回復させる離婚とは

 トト子さんに、帰る意思がないのであれば、これ以上、形だけの結婚を続けていても意味がないですから離婚を考えたらどうでしょうか。ただ離婚届による協議離婚をもちかけても、夫さんは、「反省したから帰ってきてほしい」ということを繰り返し、なかなか話もできないでしょう。そもそも、トト子さんも、今のボロボロの心と体の状態だと、夫さんと話はとうていできないですよね。
 DVが原因で離婚したいということを明確にして、家庭裁判所に離婚調停を起こして、そこで養育費など離婚の条件を含めて話し合うのが良いのではないでしょうか。DVを原因とする離婚では、夫に慰謝料を請求できる場合も多いです。
 しかし慰謝料について細かく話を詰めようとすると、夫の暴力がどの程度だったかとか、どのような具体的な精神的苦痛や身体的苦痛があったかなど、具体的な事実の問題が争点になり、言い分に食い違いがあると調停で慰謝料を決めることが難しくなります。
 そのためDVを原因とする離婚でも、財産分与である程度の現金を得られるのであれば、慰謝料という形での金銭の獲得にはこだわらないという人もいます。
 DV被害者にとって、心の傷をいかに回復させ、そして新しい生活をどのように築いていくかが最も重要です。単に離婚を成立させることだけでは解決しない時間のかかる問題です。
 ですから財産分与や慰謝料そして養育費といった金銭の問題も、また親権や面会交流といった子供の問題も、DV被害者の生活再建の足かせになることがないように、枠組みを決めなければなりません。

【トト子のその後】

やっぱり私が我慢すれば良かったのか

 トト子は、夫に対する離婚調停を申し立てた。調停は自分一人でもできると、いろんなところで言われたが、トト子は、実家で母を交えて夫と話し合いをしたときの震えや嗚咽を思い出すと、自分一人でそれができるとはとうてい思えなかった。そこで弁護士を依頼して調停を申し立てた。
 調停では、夫は「怒鳴ることや料理に手を上げることはあったが、DVというほどの大きなものではない」と言った。そして離婚に応じるつもりはないという姿勢だった。弁護士が言うには、夫が頑なに離婚に応じなければ、調停を打ち切って、夫に対する離婚裁判を起こすしかないということだった。その中でDVの具体的内容を裁判官に認めさせて、それが「婚姻を継続しがたい重大な事由」となれば離婚を命じる判決になるということだった。
 トト子は、まさか離婚するのがこんなにハードルが高いのかということに気が滅入り、「やっぱり自分がもっと我慢して、夫のために尽くせば良かったのではないか」という思いがまた浮かび上がった。
 トト子の弁護士は、そこで「離婚調停と並行して、夫さんの暴力そのものについての慰謝料請求の民事裁判を地方裁判所に起こしますよ」ということを調停で夫に言った。夫は、民事裁判を地方裁判所に起こされれば、自分も弁護士を頼まないといけないということを思ったのか、その次の調停期日で、娘の親権者をトト子とした上で離婚をすることに応じてきた。
 しかし養育費は最低限しか支払わないと言ってきた。そしてトト子は弁護士からの「なんとしても離婚することが最優先なら、相手が離婚すると言っているうちに、離婚を成立させたほうがいい」というアドバイスに従って、最低限の養育費だけを受け取る内容で離婚を成立させた。

夫の気持ちが変わらないうちに

 弁護士によると、夫名義の預貯金が不明ではあるが、自宅のローンがまだ2000万円以上残っており、頭金なども全て夫が出したのであれば、財産分与を細かく詰めても、そこから得られる金銭は乏しいだろうということだった。
 また、ほぼ手つかずで残っていた結婚するまでの貯金は、財産分与に関係ないトト子自身の財産だということで、トト子としては、調停が長引いて夫の気持ちが変わることのほうが怖かったのでこの段階で離婚をした。
「いつか逃げ出して、ホッとする日」を思って家を出たにもかかわらず、トト子は、調停が成立し、その後、役所で戸籍の手続をするまで、まったく心が落ち着かなかった。家を出た日と、離婚が成立した日と、離婚を記載した戸籍謄本を手にした日と、トト子と夫との物理的な距離は変わらないはずなのに、ホッとしたのは離婚を記載した戸籍謄本を手にした日だった。
「たかだか紙切れなのに不思議でしょう。戸籍って」と、「離婚が大好きだ」というトト子の弁護士は楽しそうに話してくれた。「財産分与がないとお金が動かないから、せっかく離婚を勝ち取っても弁護士は報酬をもらいにくいんですよ」とも弁護士は言った。
「先生、ごめんなさい。私が財産分与をしなかったから、先生に迷惑をかけて」とトト子が言うと、弁護士は「そうやって自分が悪いと思うクセは、DVの被害者の人に多いんですが、早くそのクセが直るといいですね」とまた笑いながら言った。

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南和行

みなみ・かずゆき●1976年大阪府生まれ。京都大学農学部、同大学院修士課程卒業後、大阪市立大学法科大学院にて法律を学ぶ。2009年弁護士登録(大阪弁護士会、現在まで)。2011年に同性パートナーの弁護士・吉田昌史と結婚式を挙げ、13年に同性愛者であることを公言する同性カップルの弁護士による弁護士事務所「なんもり法律事務所」を大阪・南森町に立ち上げる。一般の民事事件のほか、離婚・男女問題や無戸籍問題など家事事件を多く取り扱う。著書に『同性婚―私たち弁護士夫夫です』(祥伝社新書)、『僕たちのカラフルな毎日―弁護士夫夫の波瀾万丈奮闘記』(産業編集センター)がある。
大阪の下町で法律事務所を営む弁護士の男性カップルを追った、本人とパートナー出演のドキュメンタリー映画『愛と法』が話題。
・なんもり法律事務所
http://www.nanmori-law.jp/
・南和行のTwitter
https://twitter.com/minami_kazuyuki
・吉田昌史のTwitter
https://twitter.com/yossy_nan

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