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せきしろ「東京落物百景」
落とし物の数だけ、物語がある――。落とされたモノにも、そして落とした人にも。
『去年ルノアールで』『たとえる技術』などの著作で知られる作家せきしろが、東京の街の片隅で、本当に見つけたさまざまな落とし物について考える妄想ノンフィクション。
前回は、ガムの落とし物が呼び起こした少年時代のある記憶についての切ないストーリーでしたが、今回は、落とし主にしたら本当に困るICカードが落ちていたようで……。

「PASMO」に書かれて悲しくなるのはどんな言葉なんだろう

渋谷区恵比寿の路上にて。この落とし物から、浮かんできたのはまさかの黒板五郎と純? (写真/ダーシマ)
渋谷区恵比寿の路上にて。この落とし物から、浮かんできたのはまさかの黒板五郎と純? (写真/ダーシマ)

(レッスン)が、(緊急用)(おつかい用)だったらもっと悲しい。

都内で「PASMO」が落ちていたとしてもさほど珍しいことではない。「Kitaca」や「PiTaPa」、「はやかけん」が落ちていると別だろうが、PASMOが落ちていても興味が湧くことはない。

それなのに落ちているPASMOに興味を抱いたのは、(レッスン)というわずか数文字の言葉が黒いペンで書かれていたからだ。この文字でPASMOに対する見方が大きく変わるのだ。

まず、落とし主を想像してみるわけだが、もっとも感情を揺さぶるのは子どもに設定した時だ。中肉中背の40代と考えるよりも悲しさが段違いだ。

仮にダンスのレッスンだとしよう。するとこのPASMOはダンスのレッスンに通っている子どものものということになる。きっと親から渡されたもので、子どもにとっては絶対に落としてはいけないものだ。それが落ちている。そこに悲しさ以外何があるだろうか。

PASMOを落としたことに気づいた瞬間焦ったことだろう。何度もポケットを探し、鞄の中を探し、それでも見つからなくて泣いてしまったかもしれない。

それよりも子どもは親に怒られるかもという気持ちが大きくなってしまった可能性がある。「あんた、なんで落とすの!」「ボーっとしているからだよ!」との声が聞こえてきそうで、歩いた道を引き返して泣きながら探しているかもしれない。

親に怒られると考えてしまうのは痛いほどわかる。今考えると親は怒らないだろうし、怒るようなことでもないし、怒ったところでたいしたことないのだが、それは今自分が中肉中背の40代であるからわかることであって、当時はわかるわけがない。小学生時に万年筆を買ってもらったのだがどこかで落としてしまい、探しても探しても見つからなくて、怒られるのが怖くて家に帰ることができなくて、するとどんどん日が暮れて来て、今度は遅くまで外にいることで怒られることも加わり、どうすれば良いかわからなくなったことを思い出す。子どもの頃に何か落としてしまった時の焦りはいつまでも残っているものだ。

私の想像は続く。(レッスン)以外の言葉が書かれていたらどうなのだろうかと。

悲しくなるとしたら、(緊急用)という言葉であろうか。何かあった時のために持っていたPASMOを落とす。もはや絶望しかない。想像すると悲しくなる。

あるいは(おつかい用)も悲しくなる。電子マネーでのおつかいの練習をさせるためのPASMOということになるだろうが、私はおつかいという言葉を見るとすぐに『はじめてのおつかい』を連想してしまって泣けてしまうので、この場合、何も想像しなくても涙を流す。

私はさらに考える。文字以外で悲しくなるPASMOはあるのかと。

泥が付いていたらどうだろう。ドラマ『北の国から』に出てきた一万円札のように泥が付いているPASMO。それはそれで悲しい。ドラマでは一万円札が二枚あったから、きっと二万円分チャージされているに違いない。しかしこの場合似合うのは「Kitaca」か。

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せきしろ

せきしろ●1970年北海道生まれ。主な著書に、映像化された『去年ルノアールで』や、映画化された『海辺の週刊大衆』、『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』(共に双葉社)など。また、又吉直樹氏との共著『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(幻冬舎)、西加奈子氏との共著『ダイオウイカは知らないでしょう』(マガジンハウス)も。
ツイッターhttps://twitter.com/sekishiro

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