よみタイ

コンビニのスプーン&フォークを踏んだ犯人は誰だ!?

落とし物の数だけ、物語がある――。落とされたモノにも、そして落とした人にも。
『去年ルノアールで』『たとえる技術』などで知られる奇才せきしろが、東京の街の片隅で、本当に見つけたさまざまな落とし物について考える妄想ノンフィクション。
前回は駅に落ちている「軍手」をみつけた著者。今回は、夜の街で発見した「なにやら割れているプラスチックの落とし物」をめぐる脳内の冒険。
ある東京の街の夜の歩道にて。ただ落ちているだけではない。割れているのだ。(写真/ダーシマ)
ある東京の街の夜の歩道にて。ただ落ちているだけではない。割れているのだ。(写真/ダーシマ)

絶望という名の割れたスプーン&フォーク

生きていれば絶望する時が必ずあって、最も絶望を感じるのは玄関の目の前でカギがないことに気づくことだ。

その他にも絶望はあって、例えば爪楊枝が入っている容器を床に落として散らばってしまった時もそうだ。何百本もの爪楊枝を集めるのは一苦労で、しかもその爪楊枝は衛生的に使い物にならない。ただただ途方に暮れて爪楊枝を見つめてしまう。まさに絶望である。
 
似たような絶望に綿棒を床に散らばしてしまうというのもある。綿棒の場合、使い物にならなくはないのだが、拾い集めて容器に入れ直しても、なかなか元の状態には戻らないことも知っている分、絶望は大きくなる。
 
シャープペンシルの芯が床に散らばっても絶望だ。こちらは衛生的には問題ないものの、すべてを完璧なまま拾うことは困難であり、必ず何本かは折れる。
 
居酒屋で醤油差しを倒してしまっても絶望が訪れるし、中ジョッキを倒してしまったら絶望はもちろんのこと、周りにも迷惑をかけてしまいテンションは急降下だ。
 
イヤフォンを忘れるという絶望もあって、駅までの道のり、あるいは電車の中で音楽を聴こうとした時にイヤフォンがないのは絶望以外何者でもなく、遅刻覚悟で家に引き返してもおかしくはないし、予定をキャンセルしても仕方ないほどだ。
 
ちなみに私は陽気なサンバ隊が来たために道路の向こう側へと行けなかったという絶望を経験したことがあり、この時は通り過ぎるのをじっと待つしかなかった。

 
この写真に映っているスプーンやフォークの落とし主も絶望に陥ったことだろう。

 
スーパーやコンビニで弁当を買ったのに、フォークやスプーンが入っていない時がたまにある。家に帰って食べるなら問題はないが、野外で食べるなら問題大ありだ。ビジネスホテルの場合もティースプーンしかないことが多く、なかなかの絶望となる。
 
お店に戻ってフォークやスプーンを貰う方法はもちろんあるのだが、弁当を買う時はすでに空腹状態であることが多く、すぐにでも食べたいくらいであり、食べる道具がないことに気づくのはすでに蓋を開けてしまった時で、いい匂いが充満した後だったりする。その状態からお店へ戻ることはできない。とにかく食べたいし、面倒だ。結局蓋をなんとか工夫して道具を作るか、もういっそのこと道具なしで食べる、なんてことにもなる。それは仕方のない結果であるものの、美味しさが失われてしまうもので、なんだか自分の本能を強烈に感じる時でもある。
 
私のオリジナルのプロファイリングによると、落とし主は店に引き返したと考えられる。なぜならフォークが折れているからだ。きっと「フォークもスプーンも入ってない! これでどうやってパスタとゼリーを食べろと言うんだ。あの店員、どうしようもないな!」と激怒し、お店へと急ぐ途中に踏んでしまったのだ。フォークを踏んだ感触と音が落とし主の動きを止め、実は自分が落としていたことと、それを自ら使い物にならなくしてしまったことを知る。そして絶望ともに立ちすくんだに違いない。

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せきしろ

せきしろ●1970年北海道生まれ。主な著書に、映像化された『去年ルノアールで』や、映画化された『海辺の週刊大衆』、『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』(共に双葉社)など。また、又吉直樹氏との共著『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(幻冬舎)、西加奈子氏との共著『ダイオウイカは知らないでしょう』(マガジンハウス)も。
ツイッターhttps://twitter.com/sekishiro

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