2025.6.21
甘い料理の代表格と言えば…知ってるようで知らない、日本の「すき焼き」ストーリー
すき焼きのルーツは「牛鍋」です。明治時代の東京で生まれました。元々は味噌味だったという説もよく語られますが、当時の料理書を見ると、味噌味も醤油味も両方あったようです。東京生まれだから割り下で「煮る」ものであったかというと、そうとも言い切れないようで、今の関西風同様、肉を焼いて砂糖と醤油を絡めるレシピも最初から登場しています。要するに黎明期においては(黎明期だから当たり前かもしれませんが)決まったスタイルは存在しなかった、ということなのでしょう。そしてそれはすぐに関西にも伝わり、そこでもやはり牛鍋と呼ばれていました。
記事が続きます
その後、牛鍋は次第に「すき焼き」と呼ばれ始めました。ただし、その呼び名が定着したのは、どうも関西の方が先のようです。
実は「すき(鋤)焼き」という名称の料理自体は、牛鍋以前から存在していました。それは、野鳥や猪など、つまりジビエを、文字通り農機具の鋤(もしくはそれに代わるもの)で焼いた料理です。肉食が禁じられていた時代でも、それらは「薬食い」として黙認もされていました。しかし、普段の料理に使う鍋を使って台所で肉料理を作ると「ケガレ」ます。だから、野外で農機具を転用して作られたというわけです。
肉食のタブー視は、武家社会である江戸より、町人文化の大阪の方がおおらかだったこともあってか、この調理法は関西の方が盛んだったようです。なので牛鍋にもいち早くその名があてられるようになり、それは東京にも伝わっていきました。

その後関西のすき焼きは、肉を焼いて砂糖と醤油を絡めるスタイルに収束していったわけですが、なぜそこに収束したのかは正直よくわかりません。本来の「鋤焼き」によって「焼いた肉」のおいしさを知っていたから、という説は納得感があるような気もしますが、その「鋤焼き」だってそうポピュラーな料理だったはずもなく、そこだけに理由を求めるのも違う気がします。じゃあ理由はなんだ、と言われても僕には代案などないわけですが、「焼くタイプのすき焼き」が評判となって大はやりしたすき焼き専門店があったという記録は残っており、商魂たくましい大阪商人たちが追随していった、みたいな偶然もそこにはあったのではないかとも想像します。さらに想像を逞しくすると、東京生まれの牛鍋文化に対する対抗意識もあったりして、なんて思ったりもします。ちょっと現代の大阪のイメージにとらわれすぎですかね?
真相は誰にも確かめようがないわけですが、それに比べると、東京が割り下スタイルに収束していったのは、まだ少しはっきりとした理由があったようにも思えます。それは「どぜう鍋」からの影響です。江戸の町人文化においては、各種の鍋料理が既に定着していました。その中のひとつがどぜう鍋。アサリやマグロなどの当時人気の鍋料理素材の中では特にクセの強いドジョウの調理法が、やはり当時の日本人にとってはあまりにもクセ強だった牛肉の調理法に転用されたかもしれないことは想像に難くありません。実際に当時、どぜう鍋から牛鍋に転業した店が少なくなかったという事実もあるようです。
というわけで、ここまでの「歴史」はあくまで、限られた資料に推測を重ねた、想像上のストーリーです。ですが僕はそもそも、「砂糖+醤油」か「割り下」か、というのには、実は本質的な差はないと考えています。そのことを説明するために、話は次、一気に現代に飛びます。
次回は7/5(土)公開予定です。
記事が続きます
『異国の味』好評発売中!

日本ほど、外国料理をありがたがる国はない!
なぜ「現地風の店」が出店すると、これほど日本人は喜ぶのか。
博覧強記の料理人・イナダシュンスケが、中華・フレンチ・イタリアンにタイ・インド料理ほか「異国の味」の魅力に迫るエッセイ。
「よみタイ」での人気連載に、書きおろし「東京エスニック編」を加えた全10章。
詳細はこちらから!
記事が続きます
