2024.12.21
寿司か鰻かラーメンか……鹿児島におけるラーメンは「ご馳走」だった
辺境から見たラーメン① 鹿児島という辺境
僕は常々、いわゆるラーメンマニアと言われる人々を素直に凄いと思っています。尊敬し、一目置いていると言ってもいいかもしれません。レビューサイトなどを見ると、プロのラーメン評論家というわけでもないアマチュアの愛好家でも、仕入れ先の製麺所がどこで切り刃は何番とか、店主さんの修業先のラーメン店とその系譜とか、そういう我々「シロウト」には何を言っているのかさっぱりわからない専門知識でその店の背景を伝えてくれていたりします。味そのものの評価に関しては、正直たまに首を傾げざるをえないようなものも無いではないのですが、少なくともそれを語る語彙の豊かさには感嘆せずにはいられません。
こういった文化は、もちろんラーメンマニアひとりひとりの熱量によって成立しているのは確かですが、それ以上に、ラーメンを取り巻く有形無形の文化そのものが成熟しているからなのではないかと思います。お店、メディア、愛好家、といった様々な立場の人々が年月をかけて育んでいった文化、いわば集合知です。もちろんそこに様々な弊害――メディアによる過度な喧伝や「評論家気取り」の無責任な批評など――があるのは百も承知ですが、ごく庶民的な食べ物に関してこういう文化が育つということ自体は、極めて貴重で喜ばしいことだと思います。
この連載でも取り上げたことのある「あんかけスパゲッティ」は、どこかひと昔前のラーメンと似た立ち位置の食べ物という印象を持っているのですが、それを語る言葉はラーメンに比べるとずいぶん素朴です。硬い柔らかい、辛い辛くない、量が多い少ない……そういったごく単純な表現に終始しているのです。そもそも味を言語化するということ自体が難しい営みではあるのですが、そこを超越したラーメンのように共通言語としての豊かなボキャブラリーが育っていないこともあり、言語化における解像度は至ってぼんやりとしたものです。
記事が続きます
ラーメンはもはや、語り尽くされているのです。そんな中で自分ごときがラーメンについて何かを語るということにどれほどの意味があるのかは、甚だ疑問ではあります。ただ一点、僕は世であまり語られることのない視点で、一度書き残しておきたいことがあります。それは言うなれば、ラーメンにおける「辺境の地」を基点にこれまで眺めてきたラーメンの世界。この場合の辺境の地とは、地理的な話だけで言うならば、僕の出身地である鹿児島です。
異論も無いではないようですが、今に繋がるラーメンは東京で生まれ、東京を中心に発展してきました。現代でもトレンドの発信地はおおむね東京です。だからラーメンの近現代史は、あくまで東京を基点として語られます。澄んだ醤油色のスープに点々と控えめに油滴が浮かび、ちぢれた黄色い中細麺に、チャーシュー、ナルト、ネギ、メンマ……そういういわゆる「昔ながらの中華そば」的なものがまず原点にあり、そこから全国の「ご当地ラーメン」が派生し、同時に現代のラーメン百花繚乱の礎ともなった、これがいわばカノン(正典)です。
しかし、辺境の地から眺めるその世界は、また少し違ったものにも見えます。評論家でも何でもない一生活者からの視点で、何らかそれを書き残しておきたいと考えたのが、今回からのシリーズということになります。言うなればラーメンのアポクリファ(外典)。あるいは、記紀(古事記・日本書紀)に対する魏志倭人伝。どちらも良いふうに言い過ぎかもしれませんが、意義があるとすればそういうことです。もし「邪馬台国の位置が滅茶苦茶じゃねえか」みたいな盛大な間違いがあれば、きっと博学なるラーメンマニアがそれを優しく(?)指摘してくれるでしょう。
記事が続きます
さて、ずいぶん前置きが長くなりましたが、とりあえずアポクリファの「基点」となる鹿児島ラーメンの話から始めましょう。と言っておいていきなりですが「鹿児島ラーメン」というのは、ラーメンのジャンルとして明確には成立していません。なぜなら鹿児島ラーメンには、例えば「喜多方ラーメン」「博多ラーメン」などに見られるような一定のスタイルは存在しないからです。
スープは大まかに言えば「とんこつ」ということになりますが、白濁の程度は様々。塩が味付けの主体になることが多いのですが、中には味噌ラーメンの店もあります。麺もやはり店ごとに大きく異なります。具は、チャーシューとネギくらいはだいたい共通ですが、そこに加えてキャベツが使われたり大豆もやしが使われたりと個性を競っています。なぜそういう不思議な発展の仕方をしたのかは、正直よくわかりません。
鹿児島の人たちは「人と同じことをするのはイヤ」みたいな反骨精神が強いのでしょうか。出身者として若干思い当たる節が無くもないのですが、ともあれひとつ確実に言えることは、一般的にラーメンの象徴にして原点とされるような澄み切ったスープにちぢれ麺の醤油ラーメンは、僕が知る限り存在しなかったということです。僕はわりと大きくなるまで、あの渦巻き模様のナルトというものは、漫画などのフィクションにしか登場しない架空の食べ物だと思っていました。この食べ物はラーメンですよ、ということを読者に伝えるための、いわゆる「漫符」ってやつですね。
ある時、雑誌のグルメページの写真で、ナルトののったラーメンが実在することを知った小学生の僕は驚きました。その写真のことはなぜか鮮明に覚えています。ナルトもさることながら、スープの黒さがなんと言っても印象的でした。具としてのっていたゆで卵、ほうれん草、海苔は、どれも自分の知るラーメンとは全く結びつかないものばかりでした。好奇心と食欲をいたく刺激された僕は、両親に「こういうラーメンを食べてみたい」と直訴しました。
ところがその無邪気な訴えに対して、父親はにべもなくこう応じました。
「そういうラーメンはちっともおいしくないぞ」
母親も、そうそう、と眉を顰めて首肯しました。
「鹿児島のラーメンはおいしいから、東京でラーメンを食べるとおいしくなくてびっくりするのよ」