2025.6.28
生きていること、それは今から会いに行けるということ。【猫沢エミ×小林孝延・往復書簡11】
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小林さんは、お手紙の中でアメリカのリアリティ番組シリーズから孤独について考察していましたが、私もつい先日、イギリスで2011年から放送されているテレビドラマシリーズ『ブラック・ミラー』で、ハッとするような示唆を受けました。このドラマは、新しいテクノロジーがもたらすディストピアな未来について、1話完結スタイルで描いていくのですが、小林さんが第6便で書かれていた「もしかしたら魂とも電気信号で交信できたりする時代がそう遠くない未来にあるのかもしれませんね」が、現実化したらどんなことが起きるのか?の仮定が、ものの見事に具現化されているのです。この小林さんからの投げかけに対して私は「本当にこんなことができる未来が訪れたら、死はもはや怖いものではなくなるのに」と返信しましたが、『ブラック・ミラー』で語られているのは、生者の願いや意思で、死んだ人の意識や思考だけが別のメディアに移されて〝永遠〟という終わりなき時間のラビリンスに閉じ込められる恐怖と不自然さでした。
不老不死という思想は、人間が最も恐れるものの裏返しとして存在しているように思うのですが、『ブラック・ミラー』では繰り返し、テクノロジーを駆使した終わりのない命の恐ろしさについて語っています。また、愛ゆえに死にゆく命を手放すことができず、永遠にその存在と具体的に交信したいと願う、人間の切ない思いについても。私が願っていたことは、まさに死よりも恐ろしい〝永遠〟だったのかと愕然としました。
形あるものとして、はっきりした意思を持った状態を生とするならば、その逆こそが死なのだけど、死は生者が怯えるような荒々しいものではなくて、安寧に満ちたものなのかもしれない、と。そして、逝く命を心の中に留めて一緒に豊かな人生をまっとうすることが、唯一かつ最良の〝魂の保管〟かもしれないという考えに辿り着きました。
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小林さんのお手紙にあった「つれあいの死によって、まるで心に穴が空いたようになって、そのまま静かに後を追うように旅立ってしまう人が決して少なくない」という事実。これを読んで、私は現在のフランス人パートナーの母を思い浮かべました。彼女は御年84歳でコロナ禍に夫であるパートナーの父を見送りましたが、亡くなるまでの10年間、ライム病(マダニによって媒介される感染症)が重篤化してアルツハイマー型認知症と非常に似た状態になった夫を、ひとりで介護し続けました。彼女は8人きょうだいの末っ子で、子供時代は酒に酔うとライフル銃をぶっ放す父に怯え、貧困に喘いだ苦労人です。こうした環境で育ったゆえに無学な彼女は、決して自分の思いを饒舌に語ったりする人ではありませんが、揺るぎない人生哲学を内に秘めていて、私の目指す理想像のような存在なのです。夫を亡くした後も、彼女は夫の生前と変わらず家の中を整え、食事を作り、新しいことにチャレンジして毎日をいきいきと過ごしています。その姿を見ていると、彼女にとって夫は死んでいないのだな、今も一緒に生きているのだなとはっきり感じるのです。父の死後、私の彼は毎日欠かさず母に電話をかけていますが、スピーカーフォンから流れてくる彼女の声に、一度たりとて寂しい雰囲気を感じたことがありません。これは彼女が持っている強さからきているところもあるでしょうけれど、〝彼女はひとりじゃない。夫と一体になって生きている〟とはっきり感じられるのです。
第4便のお手紙で、小林さんはお祖父さまが自死で逝かれたことを話してくれましたが、実は彼女の兄弟にも数名自殺者がいることを先日知りました。理由は個々に違いますが、そのうちの何人かは兵役義務のあった昔のフランスで、戦争に出征したことによるPTSDが原因でした。実家を訪れて3人で話をしていた時に知った事実ですが、なぜ話がそんな流れになったのかというと、私の一族の自殺者について告白したからなのです。私の一族と、非常に近しい関係者の中で合計5人が自死しています。子供時代から自死の訃報には慣れていると言ってはおかしな話ですが、私にとっては特別なことではありませんでした。私の一族には精神疾患者がとても多いのですが、これに該当しない人も含まれています。小林さんのお祖父さまは、ご病気を苦にしての決断だったと書かれていましたね。それに対して、お父さまが「うちのおやじは度胸があったんだなあ」とおっしゃったこと、お父さまの死に対して、優しさを感じる捉え方だなと思いました。
自死に対して宗教的な罪悪感のない仏教とは違い、フランスはキリスト教(カトリック)の国で、自殺はタブーとされています。
彼の母は敬虔なカトリック信者ではありませんが、それでも道徳観の基礎を作っているのはキリスト教的な世界の捉え方だと思うので、私の一族の自殺について聞き、そして彼女の兄弟の自死について話をしてくれた時も、その捉え方が他の死と同じくフラットだったことに少し驚きました。そして、やっぱりこの人は素敵だなと思いました。なぜなら、昔から私も自死については非常にフラットな意見を持ち続けているからです。
フランスの作家ボリス・ヴィアンが1947年に発表した作品『死の色はみな同じ』はご存じでしょうか? この表題はとても素晴らしい和訳ですが、原文タイトルは『Les morts ont tous la même peau』、直訳すると、《どんな死もすべて同じ肌を持っている》という意味です。この作品のテーマには、フランスにおける人種差別問題が背景にありますが、どんな肌の色をしていようが、死は誰にでも平等に訪れることを示唆しています。私はこのタイトルを自分の中で拡大解釈して自死にも当てはめていまして、死には上下や種類や善悪の区別もなく、すべてをゼロに還す力を持っていると考えます。自死で亡くなると恥だとか、命がもったいないだとかおっしゃる方もいますが、他者がその人の逝き方に口を出すなんて、それこそナンセンスの極みだと私は思うんですよね。生き方と同じく、逝き方もその人自身に選択権がありますから。そして兄弟の自死について悲壮感のかけらもなく、病死した他の家族と同じように彼女が捉え、私に話してくれたことがとても嬉しかったのです。
そしてもうひとつ。自死について考える時、かならず思い出す物語があります。イスラエルの作家エトガル・ケレットの『クネレルのサマーキャンプ』という小説です。自殺者だけが行く天国のユーモラスでカオスな物語なのですが、ここでは生前とほとんど変わらない世界が展開している上、神さまがちっとも神らしくなかったり、不条理だったり、死者も生者と同じような悩みを抱えていたりして、天国を神格化していないところがすごくいいんですよね。ケレットは自死で逝った友人に思いを馳せながらこの作品を書いたのですが、そのふざけた世界観の設定に、私はケレットの深い人類愛を感じました。
そういえば今回、日本に一時帰国した翌日に地下鉄の駅で、『蒲田行進曲』のヤスみたいに階段から転げ落ちるという危ないスットコドッコイをやらかしました(もしも小林さんがその場にいたら銀ちゃんよろしく「いいぞ、エミ! 上がってこいエミ!」って言って欲しかったな。笑)。のちに、高血圧で一瞬気を失ったことが原因だとわかったのですが、足をバタつかせながら宙を舞っている間に意識が戻って、プラットホームの床に胸と膝を強打して倒れ込みました。幸いにも持っていたトートバッグが下敷きとなって大事には至りませんでしたが、あの時、死は確実に私のすぐ横にあると実感しました。死んでもおかしくなかったのに不思議と死ななかったという経験はめずらしいものではないと思うのですが、こういうことがあると、死とは生きているこの瞬間も私の生を縁取り、際立たせていると強く実感します。さっきお話しした『ブラック・ミラー』のように、もしも死をコントロールして排除してしまったら、生は確実にその意味を失い、色褪せたものになってしまうのでしょうね。私はそんなの嫌だな。そして〝永遠〟という言葉と結びつけるべきものは、形あるものではなく、形ないもの=つまり思い出や愛や魂だと悟りました。
あらやだ。ちょっと休憩……とヨコになったら、いつの間にか眠り込んでしまって、気がついたらもうお昼になっていました。なんだろう……東京の時間は、パリのそれよりも進みが速い気がする。そういえば、小林さんは東京時代の私の家にも、現在のパリの家にも来たことがあるけれど、私はまだ一度も小林さんちに行ったことがないんだよなあ。だから今回の滞在で、迷惑をかけない時間に訪ねてみることにします。せっかく自転車で10分の距離にいるんだし。そして、会うことで生きている小林さんの存在を確かめたいと思います。
生きている間に、たくさん会いましょうね! 東京でも、パリでも、そしてまだ見知らぬ世界のどこかでも。
高血圧とわかった途端、早速、山下達郎さんの名曲『高気圧ガール』を『高血圧ガール』で替え歌している相変わらずな猫沢より

追伸:先日、東京のストレージに預けていた荷物を実家の白河へ運んだ際、両親の遺品整理をしました(恐ろしいものが色々出てきました。笑)。ついでに白河名物のご当地ラーメンをひさしぶりに食べました。白河ラーメンは麺もワンタンも手打ち。東京では絶滅寸前の澄んだ鶏ガラベースで、古き良き〝支那そば〟といった風情です。この立派なチャーシューももちろん手作り。誰しも地元のラーメンがいちばん!と思うものですが、私も例に漏れず、日本でいちばん美味しいのは、白河ラーメンと信じて疑いません。いつか小林さんにも食べてもらいたいな。
次回、小林孝延さんからの返信は7/26(土)公開予定です。
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破天荒で規格外な家族との日々を振り返ると、そこには確かに“愛”があった。
故郷・福島から東京、そしてパリへ――。遠く離れたからこそ見える、いびつだけど愛おしい家族の形。
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