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妻が見られなかった目黒川沿いの桜を、今年見て思うこと【猫沢エミ×小林孝延・往復書簡10】

愛猫「イオ」との出会いと別れを赤裸々に描いた『猫と生きる。』の著者・猫沢エミさんと、パートナー・薫さんの闘病と旅立ちについて綴った『妻が余命宣告されたとき、僕は保護犬を飼うことにした』の著者・小林孝延さん。
受けいれがたい別れがやってきたとき、人はどのようにその後を生きていくのか――
仕事仲間であり友人でもある二人が、東京とパリを結び、喪失と再生について言葉を交わす往復書簡。

前回の猫沢エミさんからのお手紙へ、小林孝延さんの返信をお届けします。

第10便 雨の中のお花見

 こんにちは、モンスリ公園の写真とお手紙をどうもありがとうございます。あんなふうにグースやオウム!?が自由に飛び回ってる公園で、ピクニックしながらのんびり話せたら、きっと気持ちいいだろうなって想像しています。芝生で食べるデザートはフレンチにガトーヤオルトがいいかなあ。
 僕は今、ちょうどこの手紙を信州の山中に張ったテントの中で書いてます。久しぶりに福とふたりでキャンプに来ているのです。まあ、主たる目的は猫沢さんもご存知の通り、われわれのサロン「バー猫林」の定例トークイベントをキャンプサイトから中継してみようということだったのですが、なかなか今回は天候に恵まれず、ずっとテントの中に閉じ込められたままだったので、缶詰になって原稿を書くにはうってつけなのです。
 信州は東京よりずいぶん気温が低いせいか、まだまだ桜も3分咲きといった感じです。テントの中にいると、シートを叩く雨の音が大きく響くので実際の降雨量よりも大雨のように感じるんですよね。そんな今夜の気温はマイナス1℃(まじか!)、ストーブにかけたポットがシュンと音を立てはじめたので、紅茶を淹れました。

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 雨といえば2週間ほど前、冷たい雨の降る中、ふいに目黒川沿いの桜を見に行こうと思いました。いよいよ満開か?というタイミングでの急激な冷え込み。お花見を楽しみにしていた人にとっては残念な雨の日でしたが、静かに桜を感じたかった僕にとっては逆に絶好のタイミングだったのです。
 じつは薫が最後に入院していた病院が目黒川沿いにあって、僕たち家族にとって特別な場所なんです。いや、というか、なかなか楽しい気持ちで歩けない場所になってしまったというか、どうしてもここの桜並木を見ると、当時のことを思い出してしまうんですよね。川沿いのおいしいピザの店も、ラーメン屋も、介護中にみんなで交代で急いで食べに行った思い出と一緒になってしまったし、氷しか口にできなくなってしまった薫のために、近隣のコンビニのロックアイスを全部買い占めてしまったとか、今は笑えるけれど、苦しくて重かった当時の記憶がそこには確かにあったんです。
 目黒川を見下ろす病棟で、もう体力がなくなって自分の足で立てなくなっていた薫を車椅子に乗せてゆっくりと散歩したことがあるんです。売店で買ったアイスクリームを片手に窓辺から目黒川を眺めながら病院の回廊をゆっくりと歩きました。週末で外来の患者さんもいない院内はしーんと静まり返っていて、車椅子のタイヤと足音だけが小さく響いていました。11月の目黒川の桜はすっかり葉を落とし殺風景でしたが、薫は桜の木を見ながら「ここは春になったらお花見できる穴場だね」「満開になったらめちゃくちゃ綺麗だよねえ」ともう見ることができない桜の話を楽しそうにしたんですよね。ふたりで出かけた最後の場所でした。ベッドからほんの数十メートルの距離だったけど、あの短い散歩は確かに僕たちにとって「旅」だったなあと思うのです。

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 それからというもの、中目黒には行くものの、目黒川沿いを歩くことがどうしてもできなかったんです。ひとことで言えば怖かった。でも今年は行ってみる気になりました。ちょうど次の予定まで小一時間ほど空いたのと、雨だから花見客も少ないだろうなと思ったのも理由でしたが、心がいろいろなことをきちんと受け入れる準備ができたせいもあるのかなとも思います。うまく言えなくてすみません。
 川沿いの道は、しとしとと静かな雨に濡れていました。そろそろ満開かな?という桜は少しだけ色を深めていて、花びらが風もないのにときどき、ぽとり、ぽとりと落ちていました。晴れた日ならビールやおつまみを売る露天がずらりと並ぶはずの道もがらんとして花見客の姿もまばら。観光バスから降りてきた外国人の一団が雨を気にしながら歩いていました。
 傘を差して歩きながら「ああ、今年も咲いたんだな」って思ったら、ふいに、どうしようもなく涙が出てきて、声を上げて泣いたわけじゃないんだけど、ぽろぽろと、勝手にこぼれてくるみたいに涙が流れました。悲しいとか、寂しいとか、そういう単純な感情だけじゃなかったなあ。なんだろう。きれいだなって思ったんですよね、桜が。そして深い深い感謝の気持ち。それがすごく不思議で、ちょっと自分でもびっくりしてしまった。ここに立つ桜の木たちは何年も何十年も行き交う人たち、ひとりひとりのストーリーを静かに眺めているんだろうなあ。悲しいことも、楽しいこともぜんぶ。なんて思いがしました。
 じつはその日はひとりじゃありませんでした。でもその人のことを書くには、もう少し時間が必要です。ただ噓もつきたくないので正直に書いています。いつかその話も自然にできたらいいなと思っています。そして、となりにその人がいてくれたからこそ、今年の桜をまた違う色で見ることができたのかもしれない、そんなふうに感じました。
 先日の手紙にあった猫沢さんの「小林さんの前回のお手紙からは、春の芽吹きと共に広がる若葉の青い匂いがしていましたが、私の人生にも、また新しい時間がやってくる気配がしています。ところで小林さんがここまでの道のりの中で、再生の兆しを初めに感じたのはいつでしたか? そしてその兆しは、どんなものだったのでしょうか?」という問いかけ。はっきりとわかりませんが、今こうして感じているものが、もしかしたら「兆し」なのかなあ。あの雨の桜が、その入口だったような気がしてなりません。かといって悲しみがなくなったわけじゃないし、喪失が消えたわけでもないんですよ。だけど、その悲しみのすぐとなりに、小さなぬくもりが寄り添ってくれるだけで、桜の色が、ほんの少し違って見えたんですよね。
 僕が好きなアメリカのリアリティ番組シリーズに『ALONE〜孤独のサバイバー~』というのがあるんです。唐突ですが(笑)。この番組、サバイバルに自信のある強者たちが限られた装備で極地で生き延びていく様を自撮りで中継し、最後までギブアップしなかった人が賞金50万ドルを手にするというものなのです。すでにシーズン11まで配信されている人気番組。参加者はサバイバル専門家やアウトドアのスペシャリスト、生物学者など生き抜く知恵と技術に長けたプロフェッショナルばかりなのですが、そんな彼らがゲームをリタイアする多くの理由がなんだかわかりますか?
 驚くことにそれは「孤独に勝てなかったから」という理由なのです。飢えとおなじくらい、心を蝕み、前向きな気持ちを折ってしまうのが「孤独」なんですよね。番組を見ていて応援してた参加者があと一歩で優勝というときに「妻と子供に会いたくなった」と、これまでがんばってきた全てをいとも易々と手放してしまうシーンを見るにつけ「おいおい、それ今かよ!!」と思わずツッコミをいれてしまうのですが、それだけ人間というのは孤独には勝てないのだなと思うのです。
 つれあいの死によって、まるで心に穴が空いたようになって、そのまま静かに後を追うように旅立ってしまう人が決して少なくないという話はよく聞きます。実際、うちの父親もそうでした。母が亡くなったあとの父はあんなに大好きだったゴルフにも行かなくなり、見るからに気力をなくして、まるで“生きる”ということが急に重たくなってしまったみたいでした。生きる意味を、自分の人生の中に見出すというのは、そんなふうに言葉にすれば簡単だけれど、実際にはすごく難しいし、曖昧で、日によってかたちも変わる。でも、その“意味”の手がかりは、いつだって、誰かとの関わりの中にあるような気がしています。自分の存在って、他者が介在することでその輪郭がくっきりと見えてくるものです。家族だったり、友人だったり、動物だったり、あるいは過去の記憶の中にいる誰か。孤独そのものをなくすことはできなくても、そのとなりに、なにかの“気配”があるだけで、人って少し踏ん張れる気がするんですよね。実際それはぼくにとっては家族だったし、動物たちだった。

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新刊紹介

猫沢エミ

ねこざわ・えみ
ミュージシャン、文筆家。2002年に渡仏、07年までパリに住んだのち帰国。07年より10年間、フランス文化に特化したフリーペーパー≪BONZOUR JAPON≫の編集長を務める。超実践型フランス語教室≪にゃんフラ≫主宰。著書に『ねこしき 哀しくてもおなかは空くし、明日はちゃんとやってくる。』『猫と生きる。』『イオビエ』『猫沢家の一族』など。
2022年2月に2匹の猫とともにふたたび渡仏、パリに居を構える。

Instagram:@necozawaemi

小林孝延

こばやし・たかのぶ
編集者。『天然生活』『ESSE』など女性誌の編集長を歴任後、出版社役員を経て2024年3月に独立。インスタグラムに投稿したなかなか人馴れしない保護犬福と闘病する妻そして家族との絆のストーリーが話題になり2023年10月にそれらの内容をまとめた書籍『妻が余命宣告されたとき、僕は保護犬を飼うことにした』(風鳴舎)を発表。連載「とーさんの保護犬日記」(朝日新聞SIPPO)、「犬と猫と僕(人間)の徒然なる日常」(福井新聞fu)。現在は元保護犬1+元野良猫4と暮らす。

Instagram:@takanobu_koba

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