2024.12.28
私も地球も、50億年後にはみんな死んでしまうから【猫沢エミ×小林孝延・往復書簡5】
受けいれがたい別れがやってきたとき、人はどのようにその後を生きていくのか――。
仕事仲間であり友人でもある二人が、東京とパリを結び、喪失と再生について言葉を交わす往復書簡。
前回の小林孝延さんからのお便りへの、猫沢エミさんからの返信をお届けします。
第5便 50億年後の孤独
暮れなずむパリの、光と影の中。おはボンジュー小林さん、お返事をしたため始めた猫沢です。さっき、スパイス研究家の水野仁輔さんの『AIR SPICE』(厳選スパイスと水野さんのオリジナルカレーレシピ、エッセイがセットになって毎月届くサービス)で、鶏と海老のカレーを作りました。部屋中にスパイスのいい匂いが漂っています。私は水野さんのカレーの大ファンで、このスパイスセットを日本から持ち帰り、時々作っているのです。インド→日本→フランスという不思議な旅を経てカレーになるところも気に入っていて。ホールスパイスを油で炒めている時、たちのぼるオリエンタルな香りに、行ったことのないインドやスリランカの風景が見えてくるようです。そして、大学時代にバイトしていた北インドカレーの老舗『モティ』での思い出も。「エベレストに沈む夕日を、僕と一緒に眺めよう」とプロポーズしてくれたネパール人でバイト長のジャングル・バッタチャン(パンチのある名前!)、幸せに暮らしているといいな。
そういえば、小林さんも確か学生時代にカレー屋さんでバイトしてませんでしたっけ? 我々の若い頃は、異国の文化に誰もが憧れていた時代でしたよね。私は中学生の頃、ペンフレンドいましたよ(笑)。ジョンだかケビンだか、イギリスだったか、それともスウェーデンだったか、もうさっぱり忘れてしまいましたけど、拙い英語でやりとりしていました。いわゆる〝ペンパル〟ってやつです。その、今では名前も国も思い出せない誰かが書いてくれた、四つ折りの手紙を開いた瞬間の風景と、青いボールペンで書かれた、決して上手いとは言えないアルファベットの雰囲気だけは今でも覚えているんだなあと、小林さんのお返事を読んで記憶が蘇りました。
手書きの手紙は文字を綴る時、心情や体調が自然に筆圧や文字の揺らぎとして表れますよね。それがタイプライターの時代になったら失われたかといえば、私はそうじゃないと思うんです。タイプライターで書かれた手紙は一見、定型のアルファベットが無機質に並んでいるように見えて、そこにはやはり、キーを打つ強さによって変わる微妙なインクの濃淡や改行の癖などから、その人の息遣いが聞こえてくるように思います。
そして時代は流れ、手紙はさらに無機質なメールや様々なアプリケーションに取って代わられ、その基盤となるインターネットの発達により、私は今こうしてパリにいながら日本の仕事ができてしまう……というわけですが、それがなければ、この往復書簡も存在しなかったと考えると、なんだか不思議な気持ちになります。機械と信号で形作られているデジタルのお手紙に、手書き文字のような温もりを感じるのは、やはり書簡というスタイルが持つ〝思いを打ち明ける小さな勇気〟の普遍的な力があるからかも、と思いました。そして、手書き時代の手紙の筆圧に代わる何かも、ちゃんとデジタルの文字の隙間に宿っている。だからでしょうか? SNSの短いコメントにも、その人の心の在り方が表れてしまうのは……って脱線しそうなので、この話はまた今度。
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脳細胞の隙間に、ちょうどいい温度の緑茶がスーッと沁みていくような小林さんのお返事、ありがとうございました。「委ねられたことを、悩みながらやりとげ、『あなたの死』を汚さないようにすればするほど、それは自分のものになっていく」、言い得て妙です。相手のよかれと自分のよかれの境界線が滲んでひとつになっていくと、より自分のエゴが際立って見えてくる。看護する人とされる人は、互いに強く共感し合う関係にならざるを得ないところがあると思うのですが、それでも看護する人がされる人の領域へ土足で踏み入らないために、自分のエゴを必要以上に自覚するという現象は、〝尊重という思いやりが鳴らす警笛〟なのかもしれないと、小林さんのお返事を読んで思いました。このエゴを必要以上に自覚するという時点で、看護する側が最大限相手を尊重しようとしているポジティヴな印象を持ちます。なんて、少し俯瞰した視点は、時を経た今だからこそ持てたものですが、振り返ると〝これも愛……あれも愛……〟と、昭和のヒット曲『愛の水中花』の歌詞通りだな、なんて思うんですよね。看護する人が自身のエゴを自覚してしまうほど相手とひとつになっていく。小林さんが書いていた「『あなたの死』が自分のものになっていく」ことは、逆に看護される人にとっては「『あなたの生』が自分のものになっていく」ことだと思います。つまり互いの境界線がどんどん滲んで見分けがつかなくなっていくということは、尊い生と死の交換のドラマ、とも言えるのかもしれません。
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小林さんの前々回のお手紙(第2便)に「気がつけば傷があったことを忘れてしまうようになるものです。僕は今そのことが少し怖いのです。猫沢さんはどうですか?」という問いかけがありました。〝傷〟とは、愛する存在の見送りで負う、避けられない苦しみを指していると思うのですが、この傷は、決して暗いだけではない複雑な色をしていると思うんですよね。例えば、小林さんの前回のお返事にあった、薫さんの緩和ケア病棟でのハロウィン仮装のエピソード。
「それから(薫さんが緩和ケア病棟に入ってから)の時間が、悲しみや絶望にずっと飲み込まれているばかりだったかというと、じつはそうではないんですよね。そこにいつもの日常が存在しているんです」というくだり、とてもよくわかります。
ここを読み、母のことを思い出しました。肝臓がんの最末期、もう間もなく再入院するという時期でした。ある日、母と同じマンションの別部屋に家族と住み、母のサポートをメインで担当していた下の弟から「お母さんが行方不明になった!」と電話がかかってきました。私は母の心情がそれとなくわかったような気がして「大丈夫だよ。しばらく様子を見てごらん」と言いましたが、弟は「そんなのんきなこと言ってる場合かよ! その辺で倒れてたりしたらどうすんの !?」とパニック状態でした。母は携帯電話を持っていましたが、充電が切れてしまったのか繋がりません。それから数時間経ちましたが依然、母の行方は知れず。しかし弟が警察へ捜索願を出したのとちょうど同じくらいのタイミングで、母がひょっこり戻ってきました。母は、さほど遠くない近所へ買い物に出たつもりでしたが、疲れてしまい、知らないお宅の軒下で動けるようになるまで休んでいたそうです。
翌日、「どうして誰にも何も言わずに出かけたの?」と母に尋ねると、「誰にも見張られずに自由に出かけたかったの。私ががんになってから、みんなが私のことを、ただの〝お母さん〟じゃなくて〝がんのお母さん〟って見始めたのがいやだった」と、叱られた小さな女の子みたいに、ちょっと不貞腐れながら言いました。母が望んだのは特別なことではなく〝健康な人と同じく誰の指図も受けずに、自分の意思でできることを日々できるだけやる〟という、当たり前の日常でした。もちろん〝日常〟ですから、その中には冗談を言ったり、ふざけたり、笑い合う時間が含まれているのに、がんに対する怯えから母を必要以上に病人扱いし、周りが命のカウントダウンを勝手に頭の隅っこで始めて、彼女の生を死で囲い込んでしまっていたのかも、と気づきました。とはいえ現実は、とてもひとりにしてはおけない瀕死の体で、そこに健全な心が宿っているのだと切り離して考えるのは、とても難しいことですよね。
ハロウィンのあの日、泣いている小林さんの横で薫さんが笑っていた。お互いが生と死を交換したドラマチックな瞬間であるのと同時に、それは日常という同じテンポで流れる音楽にはひとつも影響を与えない、透明かつ静かなやりとりだと感じました。互いの境界線がどんどん滲んで見分けがつかなくなっていき、ひいては生と死の境界線をも消してしまうイメージへと繋がります。
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