2024.11.23
緩和ケア病棟で妻と過ごした、別れの日までの「いつもの日常」【猫沢エミ×小林孝延・往復書簡4】
というわけで猫沢さんからの質問「イオの看取りの最中に、彼女がこの病状でも死なずに生き続けてくれるのなら、それがどんなに大変でも一生このまま看続けていたいと、非現実的なことを強く願っていました。その反面、この状況下では説明しにくい多幸感に時折包まれることも。小林さんが薫さんの看護をされていた時、普段とは違う感覚や思考にとらわれることはありましたか?」にお答えしますね。
そういえば薫が緩和ケア病棟に入院しているときはとても不思議な感覚でした。そこでは、だいたい入院して14日ほどで旅立つ患者さんが多いようで、毎日だれかが亡くなり、そしてまた新しい患者さんが入ってきます。残念ながら入院したらもう家に帰ることはできないんですよね。看護師さんたちはみんなやさしくて、病棟には手作りのぬいぐるみや装飾があふれていて患者さんや見守る家族たちの心をなごませてくれます。でも、かえってそれが、いやでも僕たちが置かれた状況の重さを伝えてくるのです。僕も妻も、ここに入ったときには、もう覚悟が決まっていました。近いうちにお別れの時が来ることを。ですが、それからの時間が、悲しみや絶望にずっと飲み込まれているばかりだったかというと、じつはそうではないんですよね。そこにいつもの日常が存在しているんです。伝わりますか?
ちょうどハロウィンの頃でした。入院している人たちはほとんどが高齢のお年寄りだったのですが、看護師さんたちがみんなを喜ばせようとお化けの仮装をしてお菓子を持って病室を回っていました。そのときの薫は肝臓に転移したがんのせいで顔には黄疸が出て、腹水がたまり、足も浮腫んでいるかなり深刻な病状でした。そんな妻に黒い魔女の帽子をかぶらせて、となりでかぼちゃの被り物をさせられた僕と一緒に記念写真を撮りましょうと。「え、今? こんなときに?」と、とまどう僕をよそに薫はうれしそうに「いいね! いいね!」と大きな笑顔で写真に収まりました。命のカウントダウンが刻々と進んでいても、一方で、それもまた普段と変わらない時間なんですよ。今でもその写真を見るとおかしくて、泣いてる僕の横で薫が笑ってるんです。
入院中モルヒネが切れると薫は激しい痛みに襲われるので、そんなときはすぐに看護師さんを呼んで注射を打ってもらいました。僕は薫の手を握り、変化を見逃さないようにじっと見つめていました。しばらくすると薬が効いてきて、すーっと呼吸が落ち着いていくのですが、あまりに深い呼吸になると僕は不安になってしまう。でもその頃、薫がパッと目を開いて「今、死ぬと思った?? あはは」と冗談を言うんです。そして、落ち着くと、またいつもと同じようにテレビでNHKの料理番組を見て、「おいしそうだね」なんて、なんでもない会話をして過ごすのです。たとえが変かもしれないけれど、戦時中でも日常があって、いつ爆弾が落ちてきてもおかしくないときにも、笑顔で食卓を囲む時間があった、みたいな感じでしょうか。こうして思い出してみるとやっぱり、猫沢さんがイオちゃんと過ごした最後の日々が「情熱」だったのに対して、僕たちの日常は「冷静」だったのかな。でもそれが逆に非日常で……。なに言ってるんだかわからなくなってきましたね。おれがあんたで、あんたがおれで、みたいな感じになってしまいました……。
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ありがたいことに僕の書いた『妻が余命宣告されたとき、僕は保護犬を飼うことにした』にはさまざまな二次創作のご提案をいただいています。みなさん熱っぽく『つまぼく』をベースにこんな作品をつくりたいと、誠意あふれるオファーをしてくれるのですが、一度ある打ち合わせの席でこんなことがあったんです。
「死をドラマチックに描くために、そこにいたる幸せなエピソードをより際立たせて描きたい」と伝えられたのです。こうした手法が物語をつくるときの常套手段なのは僕ももちろん理解はしているのですが、なぜかそのとき、心がぎゅーっと縮こまって、頑なに拒否したい気持ちになったんです。そして気づきました。ああ、僕が『つまぼく』で書きたかったことって「特別な死」ではなくて「どこにでもある死」。生きていることの延長線上にある「死」だったんだなと。ドラマチックでもなんでもなくて、だれにでも訪れる普通の死。淡々と過ぎていく時間の中に自分たちは存在するだけなんだということを。だからその提案に対して拒否反応が出たんですね。
僕も猫沢さんもそうですが、動物たちと暮らしているとその感覚ってとても理解できるのではないでしょうか。彼らは死を意識して生きていない。生きている先の一部として死があるんですよ。大きな話をしてしまえば自然のライフサイクルの中にあるというか。このことをぼくは保護犬・福と暮らし始めて教えてもらったような気がするのです。もちろんエンターテインメントに昇華させるにはそれじゃあダメなので、プロの手によっていろんな脚色がはいるわけですし、僕も編集者のはしくれなので当然理解しています。なのでそこに異論があると誤解されたくはないのですが、編集者の看板をおろした、ただのおじさんとしてはまた別の思いがあるんですよね。おもしろいものです。
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僕のこうした考え方もまた、猫沢さん同様に父親から影響を受けたものかもしれません。猫沢家の名物おやじに引けを取らないクセの強い父でしたが、母が亡くなったとき、大きな喪失感とともに、ひとり残された父の世話や実家のあれやこれやなど、押し寄せてくる様々な問題にとまどう僕に対して「ぜんぶ時間が解決するから。どんな大変なことも時間が経てばぜんぶ解決するから」と慰めてくれました。なんだか無責任な言葉のようでもあるけれど、川で溺れたかけた人が、流れに逆らって泳いで岸に辿り着こうとすると体力を消耗して命を失ってしまうのに対して、流されるままにしていた人は、いつのまにか岸に流れつき一命を取り留めることがあるように、すべてを受け入れて流れに身を任せることの大切さみたいなことを伝えたかったのかなと理解しています。
その後、父にもがんがみつかり、ふたりでいろんな話をしたときに、初めて父の父親、つまり僕の祖父が自死であったことを知りました。病気を苦にしてのことだったようですが、そのことを父親が「うちのおやじは度胸があったんだなあ」と、遠くを見つめてまるで栄誉を讃えるかのように、少しうらやましそうに語っていました。その言葉の裏には子供たちに迷惑をかけずに逝きたいという思いがあったのかもしれません。事実、それからあっという間に父親は弱っていき、僕たち家族に介護の面倒をあまりかけることなく亡くなりましたから。
そういえば僕が人間の死を初めて身近で体験したのはその祖父のときでした。葬儀の後、田舎の道をみんなで棺をかついで村の墓地にある「さんまい」まで歩くのです。「さんまい」というのは火葬場のことで、そこで祖父の遺体を荼毘に付しました。当時、僕は3歳くらいだったと思うのですが、そのときの光景やにおいをはっきりと覚えています。今の日本では死が生活から覆い隠されているように思うのですが、ほんの少し前まではこうして生活の延長にあったような気もするんですよね。ある意味、おおらかさがあるというか。猫沢さんは死を初めて意識した体験、あるいは理解したときというのを覚えていますか?
今、ようやく東京の空はゆっくりと明るくなり始めてきました。本当にこの連載のタイトルの通り、僕はこの手紙をなぜか明け方にしか執筆できないでいます。タイトルの呪いですかね?(笑)。この手紙が公開される頃、僕は南米のアマゾン川で釣り糸を垂れている予定です。猫沢さんも消化できなかった10月のバカンスを取り戻す旅の予定とか立てているのでしょうか? 今度は夜明けのアマゾン川から手紙を書きますね。
では、また!!
手紙を書き終えてようやく釣りの準備ができるとよろこびに心が震えている東京の小林より
追伸:古いテントの帆布を再利用したドッグベッド。なのに猫専用になってます。こうしてくつろいでる様子をみるとなぜか温泉に行きたくなります。露天風呂がいいなあ。パリには温泉……ないよね。
次回、猫沢エミさんからの返信は12/28(土)公開予定です。
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破天荒で規格外な家族との日々を振り返ると、そこには確かに“愛”があった。
故郷・福島から東京、そしてパリへ――。遠く離れたからこそ見える、いびつだけど愛おしい家族の形。
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