2024.10.26
50歳を過ぎて家を手放しパリへ――人生最大の〝方違え〟【猫沢エミ×小林孝延・往復書簡3】
受けいれがたい別れがやってきたとき、人はどのようにその後を生きていくのか――。
仕事仲間であり友人でもある二人が、東京とパリを結び、喪失と再生について言葉を交わす往復書簡。
前回の小林孝延さんからのお便りへの、猫沢エミさんからの返信をお届けします。
第3便 「死」はいったい誰のもの?
過去のパリから、おはボンジュー小林さん。最近ふたりで始めたネットサロン「バー猫林」のせいで、〝マスター〟って呼ぶのが定着しているからか、小林さんって呼ぶの新鮮。マスターって、なんかいい響きですよね。駅前の喫茶店のマスターも『スター・ウォーズ』のジェダイ・マスターも、等しく〝マスター〟なところが気に入っています。
そんなマスター小林さんがお返事を書いていたのは、ちょうどオリンピックの閉幕する時間だったのですね。お手紙にあった、7時間未来の東京で生きる小林さんの〝謎の優越感〟を想像してみるために、7時間過去のパリで生きる私は、あえて〝謎の劣等感〟にまみれてみようとがんばりましたが、結果、まみれきれませんでした(笑)。この実験からわかったことは、生きる時間の後先に、優劣はないということ。それでも深夜のパリでお返事をしたためていると、やっぱり未来には常に明るいイメージ(未来を夢見る、など)、過去には暗いイメージ(清算したい過去、など)があるんだよなあって。それは、言葉本来の意味に、使う人間が託した思いが込められているからだと思うんですよね。
さて、黒やぎ・小林さんからのお手紙、うっかり食べないように、白やぎ・猫沢読ませていただきました。そうか……小林さんがパリに来たのって、もう2年前なんですね。ちょうど秋の今頃、小林さんは釣竿を担いで日本からやってきて、何をするのかと思えば、ブーローニュの森とセーヌ川で釣り三昧って、内心「さすが釣りキチ!」なんてウケてたんですけど、あのパリでの日々が小林さんの独立を決心させたとは。
陰陽道の世界には〝方違え〟という風習があります。凶とされている方角を避け、別の方角へ一旦とどまってから目的地へ行くのがよしとされるのですが、ふと考えると、私たちは自然とこうしたことをしていますよね。あの時は、ご自分の中にある動物的な本能が小林さんに釣竿を担がせ、西の方角へ向かわせたんだと思います。そして、セーヌ川で釣りをしていたら、犬まで流れてきたと(笑)。川に落ちた犬がどんぶらこと流れてきて、ムッシュ小林が助けたら、かわいいパリジェンヌの飼い主さんにいたく感謝されたという話を、我が家のテーブルでワインを飲みながら聞いていた時、思わず吹き出しました。そして、〝この人は本当に、救うべき命の方へと引き寄せられていく人なんだわ〟と、あらためて小林さんというひとりの人間の持つ引力について、感心した出来事でもありました。
通称〝こばごろう王国〟の東京・小林邸にも、近頃インちゃんとヤンちゃんという、新顔の保護猫さんたちが暮らし始めて、ますます賑やかさを増していますよね。なぜ、か弱くてかわいい輩が小林さんちには集まってくるのか? 〝救ったり守るべき命がどうしても集まっちゃう人〟や、〝なぜか命の見送りに付き添うことが多い人〟っていると思うんですが、小林さんはまさにこのタイプなのだと思うんです。そして、この往復書簡の白やぎ担当・猫沢も、実は昔から、このタイプに該当している人間でした。
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小林さんもご存知のとおり、命の付き添い、見送りには莫大なエネルギーが必要で、ひとつの見送りが終わるたび、もう二度と立ち上がれないんじゃないかと思うほど干からびますよね。だから、小林さんがお手紙で書いていた「妻を亡くしたこの先にある人生が、もはや消化試合で余生にすぎないと思っていた」になるのは当然だと思いましたし、私のパリ移住は、干からびきった私の人生最大の〝方違え〟でもあったわけなのです。
パリへ引っ越して、このアパルトマンに落ち着いた頃、しょっちゅう私の口から出ていたのは「死にたいのとはぜんぜん違うんだけど、もうあまり生きていたくない」というフレーズでした。そんな心の独白ができるのは、パートナーのヤンにだけですから、私の暗い独り言を辛抱強く聞き続けてくれた彼には、とても感謝しています。そもそも50歳を越えてからのパリ移住という人生最大の〝方違え〟は、小林さんと同じく「この先にある人生が、もはや消化試合で余生にすぎない」と心底思った私が勇気を振り絞り、自分をもう一度再生させるために出た賭けでもありました。
小林さんもここ数年、ご自宅のリノベーションを自分でされていましたけど、これにもまた、〝方違え〟に通じるものを感じていました。愛猫イオをはじめ、日本で大切に思っていた人たちをいっぺんに失った後、私は東京のマンションを売ろうと決意しました。思い出が詰まった日本の我が家を手放すことには、もちろん深い寂しさがありましたが、それ以上に、ここにはもう愛する者が過ごした時間が流れていない、という事実の方がもっと寂しかった。家というものは、そこに暮らす生き物によって満ちる空気が変わるものですから、もうイオもおらず、逝ってしまった大切な人たちが二度と訪ねてくることもない我が家は、形として以前と変わりない姿を保っていても、もう私の家ではなくなってしまったと感じたのです。
パリへ発つ、ほんの数日前。東京・錦糸町の某銀行にてマンションの売買契約を終えた時、〝あゝ 大切な人たちと過ごした私の家の、あの空気と空間だけが天へお焚き上げされた〟と思ったのをはっきり覚えています。今でも東京に帰った際に時々、隅田川沿いのかつての我が家を外から眺めることがあるのですが、驚くほどなんの感慨も湧いてこないのです。だから東京の我が家を手放してからパリへ向かったことは、私にとっては正解だったと思うんですよね。
小林さんのお宅のリノベーションにも、きっとそうした意味もあるのではないでしょうか。そして2年前の秋に〝方違え〟して、パリにぽーんと背中を押されて現在に至る、と。そういえば、あの犬レスキュー美談の宴でお出ししたステーキとカリカリジャガイモを作ったのは、私じゃなくてヤンです。あれ? 小林さんちの猫ちゃんとおんなじ名前だわ。これもまた不思議なご縁と言えるのかなあ。
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前置き、ついつい長くなりますね(笑)。小林さんからの前回のお手紙にあった、『天然生活』創刊当時の私の印象、言い得て妙です。昔も今も、心にライダースをはおっているという自覚はあるので、最初のお手紙から、ゴルゴ13みたいに眼光鋭く突っ込みすぎた質問を放っていたらごめんなさい(セーフティーゾーンのガラスを壊すつもりは毛頭ありません)。
小林さんが、「余命宣告を受けた妻を見送る日々を振り返りながら『俺は冷たい人間なのかもしれないな』と呟いた」理由。小林さんのお返事の中に「愛や情という高温のエネルギーを保ち続けなければいけない局面で、逆に心がすーっと低い温度で『準備』してしまうことへの嫌悪感、これをずっと抱えている」という言葉がありましたが、今深夜のパリで、首がもげそうになるほどうなずいています。
お金に無頓着で社会性のない両親の見送り時、私はまさに愛憎渦巻く感情の嵐の中にいました。しかし、長女の私が心の一部をアラスカの永久凍土並みの氷点下に保っておかなければ、実務を遂行できない現実がありました。これを私は〝冷静と情熱の間現象〟と呼んでいました。冷静と情熱の落差が広がれば広がるほど、冷静=低温で物事を準備・遂行する自分が、必要以上に冷たく感じられてしまうという。
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