2026.4.3
焚き火マイスター 猪野正哉 専属モデルを経てモデル兼ライターに。そこから一転、引きこもり生活を送った30代 【実録・メンズノンノモデル 第5回 前編】
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専属モデル卒業から一転、どん底へ。そこから始まった10年の引きこもり生活
メンズノンノでは自分らしさを表現できなかった。しかし、その挫折がむしろ猪野正哉にとっては新しいモチベーションになり、メンズノンノ専属を卒業後、彼はモデルとして様々なファッション誌で活躍し、さらにはライターという新しいフィールドにも飛び込んでいった。
猪野 「メンノン以外のファッション誌に全部出てやる」。それが、人生で初めて自分の中に芽生えた目標だったかもしれません(笑)。自分なりに頑張って、事務所に所属しないフリーランスのモデルとして、「チェックメイト」に「smart」「asayan」……思いつく限りのメンズ誌ほぼすべてに出ました。そしてあるとき、「POPEYE」の撮影現場で、編集の方から「猪野くん文章に興味はない?」って聞かれて。なんとなく「あります」と答えたところ、ライターをやらせてもらうようになったんです。そこからモデル兼ライターとして活動し始めました。最初は、何度も原稿の書き直しをさせられ、「はあ!?」と思いながらも(笑)、ジャンルを問わず自分でモデルをやりながら取材して書くうちに、企画のラフおこしからデザイン回しまで、編集作業もすべてこなせるようになりました。東銀座のマガジンハウスに“住み着く”ような生活を、7〜8年はやったんじゃないですかね。今思えば、貴重な経験をさせてもらった20代でした。

30代に入り、ようやく自分がいるべきポジションを見つけつつあった猪野。しかし、2000年代前半から中盤にかけての時代の空気感が、彼の人生に暗い影を落とすことになる。
猪野 モデル、ライターを続けながら、洋服のブランドを始めたんです。当時は、スタイリストやモデルたちがこぞって自分たちのブランドをやっていて、それがファッション好きたちの支持も集めていて、全体的にすごく勢いがあった。自分のそのムーブメントにのろうと、ある人と一緒に始めたのですが、これが見事に大コケして……。セレクトショップのような形でお店も出したものの、まったく軌道にのらず、挙げ句の果てに借金を背負う形であっという間に廃業してしまいました。
事業の失敗により一気に絶望の淵へと叩き落とされた猪野は、モデルもライター業もやめ、東京のファッション業界から逃げるように地元・千葉へと戻った。
猪野 狭い業界の中で、噂が回るのも早かったですし、「何もかもうまくいかない」というのはこういうことなんだなって。完全に人間不信です。そのときは、お金も人も、もういいやって思いました。実家で引きこもりのような状態になり、でも借金は返さないといけないから、深夜に倉庫の仕分け作業のバイトを淡々とこなして……。そんな生活が10年近く続きました。だから、僕の人生において、30代の記憶はないに等しいんです。
そんな「空白の10年」を経て、猪野正哉はいかにして再び“世の中”に戻ってこられたのだろか。パチパチパチと心地よい音を奏でる薪と、ゆるやかに揺れる火に視線を落としつつ、話題はゆっくり“その後”へと続いていく。
(4月4日9時公開の後編に続く)

PROFILE
1975年生まれ。千葉県出身。1994年10月号で第9回メンズノンノモデルに選ばれ、約2年間、専属モデルとして誌面に登場。その後20代は主にフリーのモデル兼ライターとして活動し、空白の10年間を経て40歳の頃に「たき火ヴィレッジ〈いの〉」の運営を開始。以来、「焚き火マイスター・アウトドアプランナー」として、雑誌や映像の焚き火監修を手がけるほか、イベント、ワークショップなど多岐にわたって活躍中。自ら設立した日本焚き火協会の会長を務め、また『焚き火の本』、『焚き火と道具』(ともに山と渓谷社)、『焚き火メシの本』(共著/RICE PUBLISHING)とこれまで3冊の著書を上梓している。
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後編(4月4日9時公開)に続きます
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