よみタイ

群ようこ「いかがなものか」
ふだん何となく思っていながらも保留にしがち、あるいは言い切れないこと。
世間で起こる事件、流行、事柄、町で見かけたことなどについて、
違和感と疑問をスパッと投げかける。
群ようこ流、一刀両断エッセイ。

第6回 エビデンス

 私は「インスタ映え」という言葉が嫌いだが、「エビデンス」という言葉も嫌いである。科学的な証拠や学術的な裏付けという意味だが、そういえば他人を納得させられると考えている人がいるのがいやなのである。
 私は「エビデンス」の被害に遭ったことはないが、友だちのPさんがそれに遭遇した。彼女は大学時代は服のサイズが7号だったのに、それがじわりじわりと増加し、五十歳を過ぎたら、11号でも部分的にちょっとあぶないという状態になってきた。私は彼女が健康で気分よく暮らせれば、それでいいじゃないかと思うけれど、別の友人が、
「やっぱりちょっとは運動をしたほうがいいわ。私も一緒にやるから」
 と提案して、二人でスポーツジムに入った。
 そのスポーツジムは受付のスタッフからして高飛車で感じが悪かったのだが、二人の共通の知り合いが紹介してくれたので我慢した。二人についた若い女性のトレーナーは、明らかに他のなじみの客と彼女たちへの扱いが違った。二人はそういう場所に通うのがはじめてだし、それまでろくに運動もしていないおばちゃんである。それは二人も認めている。運動ができないから来たのに、トレーナーはそのできない彼女たちに対して、やたらとため息をつくのだ。
「それは仕事をしているプロとして失格よね。できない人を少しずつできるようにするのが、彼女の役目なんじゃないの」
 私が怒ると、Pさんは、
「うーん、彼女が思うように私たちができないから、いらつくみたいよ」
 と苦笑した。週に一度、二人でまじめに通っているのに、トレーナーと顔を合わせると、Pさん曰く、「鈍くさいおばちゃんたち、また来た」というような表情になるのだという。
「腹の中でそう思ってもいいが、顔に出すんじゃない」
 私がまた怒ったら、Pさんも、
「そうなのよ、顔に出るところが、まだ人間ができていないんだねえ」
 とうなずくのだった。二人はトレーナーから呆れられつつ、ひと月間、通い続けた。
 ある日、フィットネスが終わって、二人がはあはあと息を切らしていると、トレーナーが、
「Pさん、あなた、水は?」
 と聞いてきた。
「持ってきていません」
「どうして? 持ってくるようにいったでしょう」
「前から持ってきていないですけど」
「えっ、そうだったっけ? だめですよ。ここに来るときは二リットル入りのペットボトルを持ってきてください」
「どうしてですか」
 Pさんがたずねると、トレーナーはむっとした顔になり、
「それは決まっているからです!」
 といった。
「重いからいやだわ。それは誰が決めたのですか」
「とにかく、運動の後は、二リットルの水を飲むのは決まっているんです」
「決めたのは誰ですか。ここの社長ですか」
 Pさんが面白がって食い下がると、ますますトレーナーは眉をつり上げ、
「決めたのが誰かという問題じゃなくて、常識として決まっているんですっ」
 といい放った。そこでPさんは、自分は漢方医から、水分代謝がよくないので、運動しても水分は控えめにするようにといわれているので、とても二リットルの水なんか飲めない。家で水は飲んできたし、この後にお茶を飲んで帰るので、そのときにも水を飲むし、それで私は十分だと話すと、トレーナーは口をへの字に曲げて腕組みをした。Pさんが、
「いろいろな体質の人がいるのに、みんな一律に二リットルって、変じゃないですか。ここのプログラムだって、能力によって変えてあるじゃないですか。それなのに飲む水は全員二リットルなんですか」
 と突っ込んでいくと、トレーナーはうんざりしたようにため息をつき、
「それはアメリカの学会でも認められていて、ちゃんとエビデンスがあります。その漢方云々の話ですが、エビデンスのないものは認めません!」
 といい放ったという。Pさんは内心、
(あんた、エビデンスという言葉の意味を知って使ってるの? 意味も知らないで誰かの受け売りで話しているだけなんじゃないの)
 と思いつつ、
「へえ、エビデンスねえ。でも私は二リットルもの水は飲みません」
 と宣言した。それからますますトレーナーの態度は硬化しているが、
「別にその日のメニューをこなせば、あの人は関係ないし。こっちがやめるか、あっちが担当をやめるか、どっちが先かしら。あははは」
 とのんきにPさんたちはジムに通い続けている。
 辞書を引くと「エビデンス」は科学的証拠や裏付け、という意味だが、ふだんはこの言葉はほとんど使わないけれど、体に関する医療系、栄養学系でよく使われるところが、私は気になっている。私もPさんと同じく、水分が滞りやすい体質なので、自分の体調をみながら水分を摂りすぎないように注意している。トレーナーがいった、アメリカの学会でも認められたエビデンスとやらが、どういうものかは詳しく知らないが、運動後の二リットルの水が万人に向くとはとても思えない。素直な人だったら、
「そうか、飲まなければいけないんだな」
 と飲みたくもないのに飲んでしまうかもしれない。そしてその人が運動をしたとはいえ、水分が滞る体質の人だったら、いったいどうなるのだろうか。もし私だったらその場でジムをやめていただろう。

 私は漢方薬局に毎週通って、体のチェックをしてもらっているので、西洋医学よりは東洋医学寄りの人間だ。一年ほど前と記憶しているが、テレビを観ていたら中年の男性医師が出演していて、今までの健康常識とは反対の話をしていた。私が子供のときは、食事の後は三十分は食休みをとれといわれていたが、最近は食後、すぐに運動をしたほうが、ダイエットにはよいといわれているらしい。その他、血糖値の問題で白米は避けるとか、肉の脂肪は悪ではないとか、へええといいたくなるような話ばかりだった。そのなかで知識人といわれている出演者が、
「毎日、なるべくたくさんの食品、三十品目を食べろといわれていたのに、今はいわなくなりましたね。老人は肉食をしないほうがよいともいわれていましたが、現在は食べることを推奨されている。いろいろと情報が変わるので、こちらは困るのですがそれはどうしてですか」
 と医師に聞いた。すると彼はそれについての詳しい話はせず、自分が話したそれまでの説明を繰り返し、
「これがアメリカの最新の研究結果です」「エビデンスになっています」
 といった。その後も、何かを聞かれると、「これがアメリカの最新の研究結果」と繰り返す。どのようにしてそれがそのような結果に至ったかの説明は一切なし。もしかしたら語っていたのかもしれないが、それは放送時にはなかった。彼は自分で何かを研究し発信しているわけではなく、アメリカの研究結果の単なる連絡係として、登場しているようだった。妙に愛想のいいその医師の顔を観ながら、
「ふーん、エビデンスねえ」
 といやな気持ちになってきた。
 米でも小麦でも精製されていない、玄米や全粒粉などの茶色い色のものがよいといわれ、そちらのほうが体にいいのかと、それらを選んで食べていた。すると近頃は茶色いものは体の負担になるので、食べるのなら白米がよいという説も出てきた。野菜は栄養学の説では食べることを推奨されているが、トマト、ナスは食べてはいけないと書いてある本もある。それならイタリア人はどうなるのかといいたくなる。じゃがいもを避けたほうがいいという研究者もいる。たしかに野菜アレルギーで症状が出る人もいるので、何でも食べていいというわけにはいかないのだろうが、正反対の説が出てくると、どちらが正しいのか混乱するばかりなのだ。
 先日も、体温が低い人は高い人に比べて長寿という文章をインターネット上でいくつか読んだ。最近出てきた話ではなく、十年ほど前からある研究結果らしい。これもアメリカの病院が通院する患者を追跡調査した結果、体温が低い人のほうが長寿だったという。体温が高いと活性酸素が体内で発生しやすいからだそうだ。その結果、無理して代謝を上げなくても、体温が低くても気にするなという結論になっていた。
 漢方では体温が低いのは、免疫系に影響を及ぼすので、せめて平熱の三十六度五分に近づけるようにといわれる。体温が低いと長寿説を唱える人によると、体温が上がると免疫力が高まるという証拠はないらしい。同様に体温の低い人が長寿という「エビデンス」もまだないのである。しかし低体温だと感染症にかかりやすいのではと思っていたら、ビタミン剤の摂取をすすめる人がいた。
「これで、サプリメントを作っている会社は喜ぶよね」
 と文章を読みながらしらけた。テレビは特にスポンサーが絡んでくるので、それに惑わされないように注意する必要がある。インターネットも同様になってきているのに違いない。スポンサー、業界の力関係で、次から次へと正反対の説が出てくるのではないかと私は疑っている。
 漢方はもともと非科学的といわれているので、最初から西洋医学とは相反する対象になっている。私は科学にも疎いし難しい事柄はわからないが、科学的に証明できることは、ひとつの現象に対してひとつなのではないか。なのにどうして、西洋医学、栄養学のなかで相反する説が存在するのだろうか。年月を経て研究を重ね、今までわからなかったことが、研究によってわかったりもするだろう。しかし、
「いったい、どっちなんだよ」
 といいたくなる。
 体温が低い人が長寿ならば、それはそれでおめでたいことである。私自身の経験からいうと、漢方薬局に通う前は、平熱は三十六度三分だった。しかし胃を温める煎じ薬を服用するようになってからは、三十六度六分になり、体調がとてもよくなった。それでいいと思っている。また長寿の意味も元気で過ごせる健康寿命なのか、ただ寝たきりであの世に旅立たない限り、長寿としているのかはよくわからない。自分の周囲の人たちに対しては、どんな状態でも生きていて欲しいと願うけれど、自分は何もわからず寝たきりで百歳を迎えてご長寿といわれるよりも、毎日、自分の意思を持って過ごせるのなら、平均寿命より短い人生でいい。その選択は人それぞれだろう。
 食品ひとつとっても、正反対の評価があるのは、結局は何を食べてもいいという意味ではないかと考える。ただ量的に控えたほうがいい食品はあるので、それを守ればあとは茶色い玄米、全粒粉パンだろうが、白米や食パンだろうが、自分の体に合ったものを食べればいい。人間の体は複雑で「エビデンス」だけではくくれない。それをろくな説明もせずに、「エビデンス」というひと言で納得させようとする人たちに、私はとても胡散臭うさんくささを感じてしまうのだ。

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

よみタイ新着記事

新着をもっと見る

群ようこ

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社、84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』を刊行。同年に同社を退職し、専業作家となる。小説に『無印OL物語』などの<無印>シリーズ、『かもめ食堂』『婚約迷走中 パンとスープとネコ日和』『咳をしても一人と一匹』『散歩するネコ れんげ荘物語』、エッセイに『ゆるい生活』『欲と収納』『よれよれ肉体百科』『かるい生活』『まあまあの日々』『還暦着物日記』『この先には、何がある?』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 評伝・平林たい子』など著書多数。

週間ランキング 今読まれているホットな記事