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韓国社会の苛烈な競争と自己責任のプレッシャーから解き放たれて――「私は私のままでここにいて大丈夫」と思える理由

 大学近くの病院で看護師として働いて、彼女はフィンランド人の同僚や、たくさんの患者やその家族たちに出会った。
「そこでは、年金生活の人も、難病で厳しい人生じゃないかと思う子どもたちの家族も表情が明るかったんです。福祉が手厚いから心配いらない。私の人生は大丈夫だ、私たちはこんなふうに生きてても大丈夫なんだって思っているような人たちにたくさん会いました。この人たちは、自分を他の人と比べない。自分が自分のままであって生きられることが、どれだけ人に幸せをもたらすのかに気がついた。それで私も、私のままでここにいていいんだなって思って」
「中学生のときから、韓国もこれからは国のセーフティーネットが必要じゃないかと思ってました。失敗したら次のチャンスがないのはひどいし、不幸なことは誰にでも起きるはずなのに『それは自分の責任でしょ』ってなるのはフェアじゃない。『なんで今まで貯金してこなかったのか』とか人を責めるのは、間違っているなと。働いていた会社がつぶれるかもしれないし、思うように就職できないかもしれないから。自宅学習でフィンランドの教育システムの本を読んで『ああ、失敗してもサポートする政府だから、いろいろチャレンジできる教育システムなのかな』と興味を持った。だからフィンランドに来たときに納得できる社会制度がいっぱいあった。病院で働いていたときも、医療費がタダなのも正しいなと思った」
「韓国は(OECDの中でも一番)自殺率が高いし、いまの若い世代を見ているとメンタルヘルスの問題への対応も足りないと感じます。みんなが『もっとがんばらないとだめだ』って思っている感じ。自分の弟を見ていてもがんばりすぎていると思います。『갓생(ガッセン)』という言葉、聞いたことありますか? 韓国で、少し前から使われています。『神(God)のようにうまく生きる』っていうか、時間を無駄にしない模範的な生き方のことです。仕事の後、自己啓発のためにカフェで英語や他の外国語とか、数学やコーディングを勉強するとか。とにかく何か自分を追い詰めないと耐えられないみたいな感じなんです。自分が家でのんびりしていることが不安になるのは、私は社会のせいだと思う」
 

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 彼女の言葉を聞きながら、私は自分にも思い当たることがあるなとふりかえった。
「フィンランド人は、仕事の後は公園を散歩したり、子どもと遊んだりビール飲んだり。将来のためじゃなく、テニスが好きだから、釣りが好きだからやる、という感じです」
 彼女がそう言うのは、フィンランド人の婚約者の存在もあるかもしれない。
「今日の仕事がまだ終わってない」と家でも仕事をする彼女を、婚約者は「それやっても給料は変わらないよ! それより外に出よう」と誘って、アイスクリームを食べながら散歩したりするそうだ。「ほら! あそこに雁のヒナがいるね。お天気がいいな」
「ねえ、私たちの貯金で何年かあとで家を買うとしたら、利子はいくらだろう? 子どもが生まれたら狭いかな」と話すイェジに、「いい車、家、子ども、犬、次は何が必要になる? 必要なことばかり考えていると幸せにならないよ。僕は何も考えていない。僕の親戚で、釣りだけやって一生過ごした人もいるよ。だから大丈夫」と言うのだそうだ。

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 ヘルシンキに戻る時間になり、私たちはぷらぷら歩きながらタンペレ中央駅の駅舎に戻った。夕方の駅は、昼間より多くの人たちが行き来していた。私は、送ってくれたイェジと、会ったときよりももっと固く抱き合った。帰りの電車の中で、行きと同じように外を流れる緑を見ながら、私はまた自分が気楽になっているのを感じた。実は少し前に新しい仕事の話をもらったのだが、うまくやれる自信はなかった。けれども、今の会社でいろいろ任されているイェジに「看護師さんとは全然違う仕事なのに、そんなこともできるなんてすごいね」と言ったらイェジらしい言葉を聞けたので、わたしにもできるような気がしていた。
――私に仕事を頼む人が勘違いしてたなら、その人のせいだからもうしょうがないでしょう。『私もよろしくお願いしますだけど、あなたたちもわたしによろしくお願いします』でしょう? 何か失敗しちゃったら最初は落ち込むけど『私のせいでもあるけど、あなたのせいもあるんじゃない?』って思います。ずっと落ち込んでいるばかりじゃ何もできないから」
 それで今、私はこうして連載記事を書いている。

(連載の文中の肩書や組織、値段や為替レートなどはそれぞれ2025年時点のものです)

第5回前編は2026年3/24(火)公開予定です。

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堀内京子

ほりうち・きょうこ
ライター。1997年から2023年まで新聞記者。退職し、現在は二人の子どもとヘルシンキに滞在。著書『PTAモヤモヤの正体』(筑摩選書)、共著に『徹底検証 日本の右傾化』(筑摩選書)『まぼろしの「日本的家族」』(青弓社) 『ルポ税金地獄』(文春新書)、朝日新聞「わたしが日本を出た理由」取材班として『ルポ若者流出』(朝日新聞出版)がある。

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