よみタイ

”天職”のマッサージに導かれ、タイからフィンランドまで来てしまったプイン(第3回 前編)

フィンランドの首都・ヘルシンキにある「ヘルシンキ労働者学校」。
100年の歴史をもつこの場所で、元新聞記者の堀内京子さんはフィンランド語の教室に通いはじめました。
そこで出会ったのは、いろいろな国からそれぞれの理由で、この街へ来ることになったクラスメイトたち。
生まれ育った国を出る決断の背景には、どのような物語があるのでしょうか。
「ほぼ全員が(フィンランドの)外国人」という教室で交差した、ひとりひとりのライフヒストリーを紹介するルポ連載です。

第2回はこちら

第3回 主婦歴10年、44歳でマッサージ店を起業した2児の母。きのこ採りに癒され、この地にしっかり根を張るタイ人のプイン(前編)

「この週末、あなたは何をしましたか?」
 フィンランド語のクラスで先生が質問して、タイ人のプインが答えた。
「私は昨日、森できのこを採りました」

 私はうれしくなった。フィンランド語にはきのこ採り専用の動詞(Sienestää)があると習ったが、実際にそれが使われる場面を初めて見たからだ。授業の後で私は聞いた。
「プイン、きのこ採れるんだ? 食べられないきのこを見分けられる?」
 小柄でショートカットの彼女は、いたずらっぽく笑って答えた。
「ふっふっふっ、“すべてのきのこは、1回は食べられる”って言うのだよ」
「え? ああ、1回は!」

 フィンランドの森は、例外はあるがどこでも誰でもきのこやベリー類を採っていい。森を歩くと、形も色もさまざまな立派なきのこをよく見る。これがもし食べられるものなら、採ってみたいなとずっと思っていた。ただ、生きて2回目は食べられないきのこもある(しかも、食べられるきのこと見た目が似ていたりする)と聞くと危ない。聞いてみると、ロシアやウクライナ、フランスから来た生徒たちもきのこ狩りが好きだと言う。森があるところでは、広く親しまれているようだ。ただ、自分のお気に入りの場所は普通は人に教えない。だから誰かに「きのこ採りを教えて」と頼むのも気がひけて、なんとなく手を出せずにいた。「でも、やればできるよ」というプインの言葉に励まされて、私は古本屋で見かけたきのこ図鑑を買った。さらに、食用きのこの画像やきのこ採り動画をたくさん見た。

 私たちが会ったのは初心者向けのクラスだったが、プインのフィンランド語は相当上手だった。実はクラスを間違えて登録したそうだ。それでも一番前の席で熱心にノートを取り、課題では長い作文を書き、レベルの違うペアでの会話練習でもいやな顔一つせずに楽しそうにやってくれる。 マッサージが専門で、セラピストの専門学校に進学しようとしていて、起業して自分の店を開くという。ヘルシンキ市の起業支援制度も使って、ビジネスアドバイザーに助言をもらっているそうだ。しかも小さな子ども2人の母。きのこも分かる上に、起業もするなんて……この国にしっかり根付いてがんばっているんだなあと、まぶしかった。

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 2週間のクラスが終わる日、プインは、私と、ケニアからのクラスメイトを、ヘルシンキの中心部にあるヘルシンキ中央図書館「Oodi(オーディ)」に案内してくれた。プインが「これ見て」と指さしたのは、図書館の黒いらせん階段の壁。「正直な人々のために」「間違いを犯す人々のために」「孤独な人々のために」「未来のために」「若者たちのために」「子どもがいない人のために」……と、すべての人のために図書館があるという書き込みを教えてくれた。

 違うクラスになってからも、学校でよく顔を合わせていたが、彼女がセラピストの専門学校に行ってからは会えなくなった。でもきのこ図鑑と動画のおかげで、私はきのこたちが好きな場所や見分け方が、少しずつ分かるようになっていた。8月の終わり、森はもう、しっとりした土と落ち葉のにおいがする。近くの自動車道路の音も川のせせらぎに聞こえるほどだ。

 森に足を踏み入れても、すぐにきのこは見えない。足の下でふかふかのコケを感じたら、立ち止まって目をこらす。すると突然、何もなかったはずの地面、土と草と枯れ葉の中に、「これが目に入らぬか」と言わんばかりにあちこちに、きのこが立体的に見えてくる。食べられるきのこと分かったときの高揚感、うまく採れたときの「ぽこっ」という感触と手に乗せた重みは、やみつきになる。

 私は森を歩き回りながら、プインに「私もきのこにはまったよ~」と報告していた。凝った料理をしなくても、バターで炒めて生クリームとコンソメを入れるだけでパスタソースになる。スーパーで、1パック600円もする値段で売っているのを見ると、さらにうれしい。恵みが豊かすぎるので、キノコのシーズンになると目に入る森すべてに入っていきたくて、足がむずむずする。ああ、あの森には何が生えているんだろう!

 用事で初めての森を通ったとき、見たこともないような立派なきのこの群生地にでくわしたことがある。しかもいくつもある。これはとんでもないきのこの森だ。食べられるきのこもきっとたくさんあるよ。うれしくて背中がぞくぞくした。ふと、小道にたっている看板に目がとまった。

「旧マウヌラ射撃場:このエリアのベリー類やきのこ類は食べないでください」

 だからこの辺りは、こんなにきのこがあっても誰も採らないのか。看板によると、ここに1914年から1962年までの間、射撃場があった。土壌の鉛濃度が高いので、きのこ類がそれを吸収して基準を超える鉛を含んでいる可能性があるという。60年以上経っても、まだきのこは採れないんだなあと思い、そしてふと考えた。クラスメイトたちがきのこ採りで週末を楽しく過ごしたという、ロシアやウクライナの森は戦禍でどうなっているだろう。燃えたり、銃弾が散らばったりしたら、もう森は前のようではなくなってしまうのだろうかと。

きのこを採らないほうがいいエリアを示す案内板 撮影:堀内京子
きのこを採らないほうがいいエリアを示す案内板 撮影:堀内京子

 いや、日本でもそうだった。原発事故で、毎年楽しみにしていた山菜やきのこ採りが前のようにできなくなった、と嘆いていた人の声が急に思い出された。自分がきのこ沼にはまって初めて、その喪失感と痛みを想像することができた。

 そんなある日曜日、買い出しに行ったアジア食材スーパーで、子どもたちを連れたプインに久しぶりに会った。お互いになんとか生きていることを喜び合い、私たちはまた、図書館で会うことにした。今度はプインの話を聞かせてもらうためだ。

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堀内京子

ほりうち・きょうこ
ライター。1997年から2023年まで新聞記者。退職し、現在は二人の子どもとヘルシンキに滞在。著書『PTAモヤモヤの正体』(筑摩選書)、共著に『徹底検証 日本の右傾化』(筑摩選書)『まぼろしの「日本的家族」』(青弓社) 『ルポ税金地獄』(文春新書)、朝日新聞「わたしが日本を出た理由」取材班として『ルポ若者流出』(朝日新聞出版)がある。

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