よみタイ

酒井順子「家族終了」
男女の夫婦に、子ども二人。
かつて日本の「核家族」はそんなイメージだった。
現代は、入籍も結婚もせず、子どももいたりいなかったり、
血縁関係なく同居していたり、同性同士がカップルだったり。
家族とは何だろう――変わりゆく「家族の風景」を考察するエッセイ。

第2回 お盆

 一応はお寺に墓があって、葬儀等は仏式で行うけれど特に仏教を信仰しているわけではないという、日本によくあるタイプの我が家。家族の他界時には、仏様そしてお坊さんに熱心に手を合わせますが、それ以外の時はほとんど、仏教のことは忘れています。
 とはいえ、我が家には仏壇があります。放置するのも心苦しい、ということで朝は水やお茶などをお供えし、一応は花も絶やさないようにしているのです。
 信心の篤い人達を見ていると、朝な夕なに、仏壇にご飯を供えたりお経をあげたりしている様子。夫に先立たれたおばあさんなどの場合は、亡き夫の分も食事を作ってお供えし、それを下げて自分が食べる、という人も。
 そういった人に比べると私は、仏壇の扱い方が、いかにも雑なのでした。第一、我が家では仏壇自体、非常に簡素。特に北陸地方などに行くと、仏壇に対する思い入れが強く、仏間の壁の一面が、ほとんど舞台装置のような仏壇だったりもします。家を建てたなら、その一割の価格で仏壇を買うのが一般的なのだそうで、その存在感はほとんどベンツ。
 対して我が家では先祖達からして、仏壇に対する思い入れが強くない方だった模様です。小さくて地味な仏壇ですし、同居していた亡き祖母も、仏壇関係の取り扱いは、
「ま、適当でいい」
 という感じだったのです。
 私もそのやり方を踏襲しているわけで、仏壇に関しては、最低限のことしかしていません。お水やお茶の他に、一応は食べ物もお供えしているのですが、長期間置きっぱなしにできそうなもの、つまりは夏蜜柑なつみかんとか練り羊羹ようかん、焼き菓子といったものばかり。仏壇がある部屋にどなたかがいらっしゃる時のみ、ちょっと見栄えがするお供えにしていることを、ここに告白しておきます。
 仏壇に対するケアが手厚いか否か。それは、家族に対する思いに比例しています。仏壇は、お寺の出張所ではありません。一応、小さな仏像のようなものは置いてありますが、先祖崇拝の気持ちが強い我々日本人が仏壇に向かう時は、仏様に対してではなく、ご先祖様達に対して祈っている。
 つまり仏壇は、冥界にいるご先祖様達の、現世における出張所なのです。私も仏壇に相対すると、
「えーとお父さんにお母さんにお兄ちゃん、おじいちゃんにおばあちゃんにそのさらに先のご先祖様達‥‥」
 と心の中でブツブツ言っているのであり、仏陀ぶっだを思い浮かべているわけではありません。
 死した家族の居場所が仏壇ですから、当然、家族思いの人は仏壇を大切にします。朝晩に手を合わせる他にも、到来物があれば、
「まずは仏壇にお供えしましょう」
 となる。
 しかし私はといえば、到来物があったなら、
「あら美味しそう」
 と、さっそくパクパク。すっかりなくなってから、「あ、仏壇‥‥」となる。
 ご先祖様思いの人は、地震や火事で家から逃げなくてはならないという時、
「お位牌を持って出なくては!」
 となるのだそうです。が、もしそのような事態になった時、「お位牌を!」という発想は、私には浮かばないことでしょう。水に食料にスマホに‥‥と、自分の生存にかかわることしか考えないであろうことは確実であり、位牌については「まぁあれは、単なるモノだしね」となることが容易に予想できる。
 情に薄い人間であることよ。‥‥と、仏壇を見る度に、ご先祖様に申し訳なくなる私なのですが、年に一回、仏壇の存在感が増す時があって、それがお盆なのでした。
 ご先祖達が家に帰ってくるとされているのが、お盆。我が家にも、お坊さんがお経をあげに来て下さいます。東京は七月がお盆なのであり、お盆が終わったら本格的な夏、というのが例年の感覚。
 仏壇がある部屋で、お坊さんのお経を生で聴いていると、信仰心を持っていない私のような者も、有り難い気持ちになってきます。間近でお経をあげていただくことによって、ご先祖達も喜んでくれているのではないか、という感覚にも。
 しかし少子化の波を思い切りかぶっている我が家では、いかんせん聴衆が私を含めて二人、というお寒い状況なのでした。なにせ家族が“終了”状態ですから、現世でお経を聴く者よりも、仏壇の中の人達、つまりご先祖達の方が、うんと多い。
 お盆と言えば、本来であれば家族があちこちからつどう時期です。普段は仕事だ何だと忙しくても、お盆となったら実家に戻って、
「やっぱり家族はいいなぁ」
 といったことをしみじみ思ったり、そのうち疲れてきて、
「早く帰りたい」
 と思ったりすることになっているのが、お盆という行事。
 私が負け犬(いい年をしても独身でいる女性達、の意)盛りだった頃は、お盆と言うと、年末年始やゴールデンウィークと並んで、独身者につらい時期でした。それはつまり、家族で集まり、家族というものについて考えざるを得ない時期。仕事も休みになって、周囲の人達も、それぞれ実家に帰ったり、家族でどこかに行ったりしている。不倫などしていようものなら、不倫相手も家族と一緒にいなくてはならない。‥‥というわけで、独身女性達は急に憂鬱な気分になっていたのです。
 実家に帰ってもいいのだけれど、特に楽しくもないし、居場所もない。地方の場合は、
「あーら◯◯ちゃん。まだ一人なの?」
 などと、ご近所さんから無邪気な言葉をかけられたりもして、いたたまれない気持ちに。かといって海外に行くのは高いしな‥‥。ということで、お盆が独身受難の季節であることは、当時も今も変わらないことでしょう。
 そのような繊細な時期は既に通り越した私は今、お盆をしみじみと楽しむことができるようになりました。家族が集合することはできませんから、お坊さん一人に対して聴衆二人という贅沢な環境で、お経を堪能。八月のお盆の時は暇なので、京都のお寺に夜に出向いて、お精霊しょうらい迎えとか六道ろくどうまいりといった行事を眺めたりして、あの世への淵を眺めているかのような気分に。
 そんな感覚になったのも、私が「あちら側」にじわじわと近づいてきたからなのでしょう。現世の楽しみもよいけれど、年をとって冥界を意識する機会が増えてくるにつれ、「あの世から皆さんが帰ってくるとは、面白い」という感覚に。昔のおばあさん達も、きっと若い頃から信心深かったわけではないのだろうな。年をとるにつれ、心身ともに「あちら側」にじわじわと近づき、仏壇とか仏事を身近なものにしていったのだろうな。‥‥などと思いつつ。
 が、私がそのように面白がっていても、あちら側の方々は今、心配を募らせているのではないか、という気もします。お盆でお経をあげていただいた時、その聴衆わずかに二人、ということは前述の通り。ファミリーツリーは、明らかに先細り状態です。
 先が細まっているだけではありません。諸般の事情で仏壇のある家に住んでいる私には子供がいないし、亡き兄の子は女の子で、「他家」に「嫁」にいったならば、仏壇の継承者とはなりにくい。我が家のご先祖ズは今、お盆に戻ってきてお経を聴きながらも、
「この先、どうなるんだ」
「この人達がいなくなったら、もう私達の帰省先はなくなるってこと?」
 などと、不安げに話し合っているのかも。
 ええ、その通りなんです。大変に申し訳ないことです。‥‥と、「家の継承」などということには全く関心の無い私も、お盆の時期だけは少し神妙に、思ってみる。
 お盆というのはそもそも、現世を生きる者達に、そのようなことを考えさせるためにある行事なのかもしれません。その時期、先祖が本当に現世に戻ってくるのかどうかは、わかりません。本当に戻ってくるのだとしたら、東京はお盆が七月で他の地域は八月、などということはおかしいのではないか。あの世において、子孫が東京に住む先祖達は早めに下界に降りたりしているというのか。また、日本人の先祖だけが七月とか八月にバタバタと現世に戻っていくというのも、冥界ではどう捉えられているのか。国際結婚の家庭とかでは、どうしているのか‥‥。
 とはいえ、そんなことはどうでもいいのでしょう。「先祖が戻ってくる」ということにしておいて、現世を生きる家族が一堂に会し、その結びつきを再確認したり、家族の有り難みを実感したり、いつまでも独身の者には居心地の悪さを感じさせて結婚を促したりする。結果、都会に出ていた長男が、
「俺、こっちに戻ってくるよ」
 と決心するかもしれないし、いつまでも結婚しなかった長女が、あまりのいたたまれなさに嫌気がさして一念発起して結婚相手を見つけ、次のお盆の時にはそのお相手を連れてくる、ということになるかもしれない。家族のプレッシャーを与えるための行事がお盆なのであり、「先祖が戻ってくる」というのは、その口実ではないか。
 しかし今、お盆やら仏壇やらといった事物は、どんどんカジュアル化・簡素化しています。北陸ではベンツ並みの仏壇がバンバンと売れるのかもしれませんが、特に都市部ではそのような仏壇を置くスペースはありませんし、うるしに金箔といったゴージャスな色彩の仏壇は、今風の家にはあまりに不釣合い。
 親御さんが亡くなって仏壇を用意することになった、という友人知人が最近はちらほらと見られるのですが、
「アマゾンで買ったよ、五万円」
 といった感じ。それも、シンプルなデザインで棚の上に置くことができるような、目立たないものが人気です。
 本来的なことを言えば、その家の実の娘が仏壇の世話をし続けるというのもいけないことなのだろうなぁと、私は毎朝、仏壇にお線香をあげる度に思います。その家に生まれた娘が、五十になっても「嫁」にいかずに仏壇のある家に住んでいるとは、ご先祖達も予想外だったに違いない。本来的に仏壇とは、長男とその嫁とが継承するものだったのでしょうし。
 沖縄の位牌について調べたことがあるのですが、沖縄の位牌(トートーメーと言う)は、はっきりと「女性は継承できない」とされるものでした。本土の位牌が一人一つ、もしくは夫婦で一つという一戸建て方式であるのに対して、沖縄の位牌は、名札のような牌を大きなケースのようなものに差し込んでいくという、集合住宅方式。位牌を継ぐということはその家の財産を継ぐということでもあり、その役を女が担うことはできない。息子がいない時は、従兄弟でも親戚でも、とにかく血のつながりのある男性に継がせる、といったケースもあるのだそう。
 本土よりも儒教じゅきょう的な思想が強く残る沖縄だからこその習慣であることよ、と思ったのですが、本土においても、その手の感覚はあるのではないか。沖縄では、独身のまま亡くなった女性や、離婚して独身となって亡くなった女性は、実家の墓や、トートーメーにも入ることができません。その手の女性を墓やトートーメーに入れたらよくないことがある、ということなのだそうです。
 それらの習慣もまた、家を絶やさないようにするためのものなのでしょう。個人の好きにさせていたら、家は案外簡単に絶えてしまうということを、昔の人は知っていた。だからこそ、ほとんど脅しまがいの仕組みをつくって、現世に生きる者達を、家存続のために努力させようとしたのではないか。
 ‥‥といったことを考えてみますと、「かずに五十」の娘(=私)が、実家でかなり雑に仏壇を預かっているという我が家の現状はもう、不吉きわまりないことになります。しかし私は、「でもそれも、しょうがないよね」と、思うのでした。墓とか仏壇にまつわるプレッシャーをかけられたとて、結婚しない人はしないし、産まない人は産まない。男しか家だの仏壇だのを継ぐことができないのだとしたら、これからその手のものは、どんどん絶えていくしかないでしょう。
 実際、「継ぐ人もいないし」とか「残されても迷惑だろうし」と、墓を自分の代で終わりにする「墓じまい」を考えている人も多いものです。葬儀もまた、莫大な費用がかかる大仰なものでなく、カジュアルにしたいと思っている人が多い。葬儀や墓など、「死」の関連産業は、大きな変革期を迎えているのです。
 これは、「家族」は大切だけれど家制度の「イエ」は息苦しい、と思っている人が多いことのあらわれではないかと、私は思います。イエを象徴する存在としての墓や葬儀ではなく、今の人達はその手の事物を、個人をあらわすためのものとして捉えているのではないか。
 イエを絶対的につないでいかなくてはならない旧家、たとえば天皇家などを見ていると、その息苦しさがこちらまで伝わってきそうです。イエ存続のために、誰かが尋常ではない無理をしたり我慢を強いられたりしなくてはならない様子が、ありありと。
「男系男子しか継ぐことはできない」というきまりに則っている天皇家も今、存続の危機に瀕しています。皇族には女子ばかりが産まれ、やっと秋篠宮あきしののみや家に生まれたのが悠仁ひさひと様。
 家を継ぐということが必須である天皇家にしても、そのような綱渡り状態であることを見ると、家をつないでいく困難さがわかります。天皇家の場合、特殊な家であるからこそ、配偶者探しに苦労する、ということもありましょうし。
 もし女性天皇や女性宮家もOKとなったとしても、家をつないでいくのは大変そうです。今、三笠宮みかさのみや家の二人の娘さんは、三十代にして独身。高円宮たかまどのみや家には三人の娘さんがいて、結婚された方もいますが、お子さんは生まれていない様子。そして秋篠宮家の眞子まこ様の結婚問題については難儀なニュースが伝えられています。愛子あいこ様や佳子かこ様も、特別な家の出身ということで、簡単に結婚できるわけではなさそうです。
 存続させなくては、と思うと途端に大変になるのが、家というものなのかもしれません。もっとかるーく考えている庶民の家では、子供がぽんぽんと生まれているというのに‥‥。
 以前も書いたように、養子によってつながった私の家であるわけですが、そうして生まれた私達は、特に子孫繁栄に熱心ではありませんでした。考えすぎてもつながらないのが家、そして考えなければますますつながらないのも、家というものなのでしょう。
 そんなわけで私も、老年期に入ったならば、墓じまいや仏壇じまいを考えなくてはならないことは確実です。その頃になったら、墓や仏壇のシステムにも、手軽で新しいものが色々と導入されているに違いありません。特に墓などなくても、はたまた拝んでもらわなくても化けては出ませんよ、というつながり欲求の薄い私のような人は増えるような気がするわけで、死はどんどんカジュアル化していくのではないか。「無印の葬式」とか「ユニクロの墓」とかがあったら、人気になるような気がするのですが、いかがでしょうかね‥‥。

※この連載は、集英社学芸編集部ウェブサイトに掲載された「パパ愛してる」「火宅」「心配」「家事」の4章(現在サイト上で読むことはできません)とあわせて、加筆修正の上、2019年前半に単行本化の予定です。

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酒井順子

さかい・じゅんこ●1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。広告会社勤務を経て執筆専業。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞を受賞。著書に『おばさん未満』『男尊女子』『女子と鉄道』『源氏姉妹』『an・anの噓』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』など、現代世相の分析から古典エッセイまで多数。

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