2025.7.9
食べられる人
群ようこさんが小説の中で描く食べ物は、文面から美味しさが伝わってきます。
調理師の母のもとに育ち、今も健康的な食生活を心がける群さんの、幼少期から現在に至るまでの「食」をめぐるエッセイです。
イラスト/佐々木一澄
ちゃぶ台ぐるぐる 第18回 食べられる人

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近頃は気温の上下が激しく、半袖でも暑い日の翌日に、上着を着ないと寒い日があったりする。それが何度も繰り返されるので、体調管理も難しい。昨日、飲み続けている煎じ薬を漢方薬局に取りに行ったら、
「最近の変な気候で、何も食べたくないっていう人が多いのだけれど、大丈夫ですか?」
と聞かれた。私はどんなときでも食欲がないということがないので、
「ええっ、ふだんと同じように食べていますけど」
と返事をした。
「ああ、それはよかったです。今の時期に御飯が食べられないと、この先、湿気が多い梅雨や、暑い夏が来てますます食欲が減退するから、何か月もの間、御飯がちゃんと食べられないことになっちゃうのよね。そうなるととても困るのだけれど」
先生はため息をついた。
私が服用している煎じ薬は、私の弱点と診断された胃を温める薬である。私の体質は、体調不良に陥る原因は胃とのことなのだが、胃が弱いのに食欲が減退しないのは不思議だといつも思っていた。だいたい市販の胃薬の広告でも、胃弱となると食欲がなさそうな細身の人物の写真やイラストが描かれている。効能が期待される症状にも食欲減退が入っていたと思う。そのことについて先生にたずねると、胃が弱い体質のなかには、食べられないタイプと食べられるタイプの二つがあるそうで、私は食べられるほうなのだそうだ。そういえば食欲減退というよりも、若い頃は食べ過ぎていつも後悔していた自覚がある。
「それでもね、食べられないよりは、食べられたほうがいいんですよ。食べることは生きる基本なので、それが難しいとなると、体を動かす力がなくなるから」
という。食べられない、食べようとしない日々が続くうちに、それが習慣になってしまい、だんだん食べられないことが普通になってきて、それが歳を重ねたときに、様々な問題を引き起こすらしい。
「習慣にならないように、気をつけなくちゃいけないのだけれど、食事はちゃんと摂らないと、本当に困るのよ」
薬局に通ってくる人のなかにも、食生活を変えたら、薬など飲まなくてもいいのにという人がいる。しかし自分の食生活を変えたくない、好きなものを減らすのはいやだと頑なで、それで売薬よりも高価な漢方薬を服用する。
「食べるものに気をつければ、それで済むのだけれど」
先生の指導に従う人もいれば、どんなにいわれても従わない人がいる。食生活は個人的な好みが大きいから、いくら先生にいわれても、そう簡単には改善できないのだろう。昔の歌謡曲に「わかっちゃいるけど、やめられない」という歌詞があったが、人間とはそういうものなのだ。
しかし我慢するのはとても辛いが、先生からのアドバイスを受け入れて、食生活を変えた人は、ちゃんと体がよくなっているという。気温差が激しいとき、
「暑いからといって、冷たいものをたくさん食べてはいけませんよ。明日は寒くなる予報が出ているし」
と釘を刺されたのに、誘惑に負けて冷たい食事やお菓子を食べてしまうと、気温が下がったとたんに体調を崩してしまう。
「もう少し、みんな自分が口にするものに対して、気を遣ってもらいたい」
そう先生はいうのだが、それがなかなか来局する人たち全員には伝わらないのだ。
そういう私も、体調を崩して先生にお世話になった原因は、甘い物の食べ過ぎだった。他人のことはいえない。当時は食欲に対して、私もコントロールができなくなっていた。母親が倒れて、今後どうなるかがわからず、ばたばたしていたこともあったのだが、そのときに平気で大福餅を六個食べられた自分が、本当に信じられない。いったい頭の中の構造がどうなっていたのかと恐ろしくなる。食事は手軽なストレス発散になるから、冷静になると、信じられないようなことも、やらかしたりする。
先生によれば、老齢になっても食べられる人はやはり元気でいられるという。高齢になると栄養の吸収が悪くなってくるので、意識して食事をしないと低栄養になる。元気な人はきちんと食べるという食習慣を保ってきたからでもあるらしい。そういった話は、これから歳を重ねる私にとっては、いい話ではあるのだが、一方で、
「どれだけ食べたらいいの?」
という疑問もわいてくるのだ。
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