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蔦屋重三郎と「オールドメディア」の女性表象【児玉雨子 特別エッセイ】

井原西鶴と近松門左衛門という先立

 もうひとつ、男余りの江戸という都市構造を踏まえた上で、文化的素地もあったのではないかな? と思う要素がある。それは蔦重が生まれる以前、17世紀に活躍した井原西鶴や近松門座伊右衛門らの活躍があり、蔦重活躍の土壌が整ったのではないか、とふんわり感じているのだ。

 まずは西鶴だ。彼の『好色一代男』は上方で流行った浮世草子で、源氏物語をベースにしながら主人公:浮世之介が7歳から60歳まで、とにかく生涯に渡りさまざまな男女と契って契って契りまくる作品だ。

『好色一代男』第一巻。わずか七歳の浮世之介が侍女にナンパをする。『源氏物語』で光源氏が七歳にして読書を始めたことのパロディ。出典:国立国会図書館デジタルライブラリー
『好色一代男』第一巻。わずか七歳の浮世之介が侍女にナンパをする。『源氏物語』で光源氏が七歳にして読書を始めたことのパロディ。出典:国立国会図書館デジタルライブラリー

 江戸時代の文芸はこういった平安・鎌倉の王朝文学を、庶民の言葉にパロディすることが多く、歌では狂歌や俳諧の連歌が同じようなマインドで発展している。「あはれ」に満ちた宮廷恋愛物語を、おもしろセクシャル一代記に転換した本作の衝撃が、その後に強烈な影響を及ぼしたのではなかろうか。

 蔦重が手がけた本は、特に黄表紙や洒落本といった、遊里での男性の遊びを滑稽に表したジャンルが中心だった。先述のとおり、セクシャルな出来事や花街での失敗で笑いを取る作品が多く、そういった感性が黄表紙とともに突如登場したというより、『好色一代男』から庶民文化に根を張っていた感覚が花開いたものなのかもしれない。大江戸男子校文化は、おもしろOB西鶴先輩の功罪でもありそうだ。

 さらに近松門左衛門の虚実皮膜論も、メディアの女性表象の話に大きな影響を及ぼしたのではないかと睨んでいる。

 ご存知の通り、近松は17世紀に上方で浄瑠璃作家として活躍した。彼はかの有名な『曽根崎心中』をはじめ、さまざまな作品を作るとき、実際の心中事件やそれにまつわる噂を取材してひとつの作品にしてゆく作風だった。

 彼は「事実と虚構の肉薄するところに芸術の真髄がある」という芸術論を抱いていて、一時のゴシップとして消費されてしまう心中事件を、その心の機微を描いた物語に昇華した、という特徴がある。現代でたとえるなら、それこそ大河ドラマにも虚実皮膜の魅力があり、史実を踏まえた上で脚色されているのがおもしろく、そこに芸術の真髄があるというわけだ。

 しかし、この「虚実」が厄介でもある。

 近松のいう「虚実」はあくまで創作論のことで、「虚」は創作部分、「実」は実際に起きた事実の部分のことなのだが、当時遊郭が芝居の舞台になりやすかったので、実際にそこで繰り広げられる接客にも「虚実」が持ち込まれてしまったように思う。

 遊女の嘘かまことかわからない手練手管に「虚実」を見出し、そこに何かしらの情やロマンを抱く感覚が醸成されてしまう。先述の男子校現象も手伝って、女という存在そのものが「虚」──フィクションとして扱われてしまい、この遊郭という場所のイメージをどんどん美化し、女性がコンテンツとして消費されてしまう土壌を耕してしまったのではないだろうか。

 今でこそ女性にお金を払って性的サービスを受けることは、教養のない、有害な男性らしさを象徴する行為といっても過言ではない。しかし当時はそんな文脈があったからか、遊郭によく通いそこの事情をよく知っていることは、今でたとえるとたくさんのフィクションを鑑賞し、おしゃれで都会的な人という印象を持たれたのだのだろう。もちろんその才気が輝いていたのも確かだが、こういった社会・文化的背景があった上で、蔦屋重三郎は遊女評判記や数々の戯作をプロデュースし、後世でメディア王と称されるほどの活躍ができたと私は捉えている。

「オールドメディア」とは何だろう

 男社会の都市で社会的にも文化的にも女性がフィクショナルなコンテンツとして扱われ、本というメディアがそれを発信し、受け手に広まって現実でも再生産されてしまう──私には、この感覚が実は現代まで脈々と受け継がれているように思えて仕方がない。

 たとえば、男性作家のセクシャルな告白がすぐれた近代小説として教科書に掲載される。毎週のように、青年誌や男性向け雑誌でかわいい女の子が水着で表紙を飾っている。一方で、女性向け雑誌で男性タレントが上裸で表紙を飾ると「あの雑誌の名物特集!」と、それだけでひとつのニュースになる。ここ最近は女性の社会進出も少しだけ進んだけれど、メディアでの不均衡は是正されたとはとても言えない。

 冒頭で触れたフジテレビ問題に際しては、性的暴行はしばらく「あるタレントの女性トラブル」と報じられ、記者会見では女性が具体的にどのような性被害を受けたのかを詰問する記者もいた。それはメディアとしての追及姿勢のあらわれだったのだろうけれど、ひとりの人間の性被害がゴシップとして取り扱われる様子に辟易したり、まるで自分までセカンドレイプを受けたような気持ちになったりした人もいるかもしれない。

 それがいくら事実であっても──いや、事実であるからこそ、女性のこととなると「虚」のコンテンツのように興奮状態で取り扱ってしまうのは、江戸時代から連綿と続く日本メディアの悪しき伝統と言える。「オールドメディア」なるものは、本、新聞、テレビという形態が古いのではなく、こういった「虚実」の感覚ではないかと思うのだ。ネットなどの新しいメディアがいくつ台頭しようと、テレビ局の管理職が交代し、株主が外資系に変わろうと……いかなる変化が起ころうと、依然として女性を「虚」として取り扱い続ければ元の木阿弥だ。

 このジェンダー感覚について考え直すことが、メディア業界の脱皮と生き残り戦略において肝腎要なのかもしれない。私も「オールドメディア」にたいへんお世話になっている身として、女性でありながら女性を「虚」として取り扱っていないか考え直さなくては……。

 蔦屋重三郎のドラマが「おもしろい大河ドラマ」としてただ流し見されるだけでなく、新しいメディアのあり方を模索するいい機会になることを祈り山。

【参考文献】
齋藤修 『江戸と大阪 近代日本の都市起源 (ネットワークの社会科学シリーズ)』(NTT出版2002)
井原西鶴『好色一代男』(岩波書店 1955)
『古典日本文学全集 36芸術論集』(筑摩書房 1962)

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新刊紹介

児玉雨子

こだま・あめこ
作詞家、小説家。1993年生まれ。神奈川県出身。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。アイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に幅広く作詞提供。2021年『誰にも奪われたくない/凸撃』で小説家デビュー。2023年『##NAME##』が第169回芥川賞候補作となる。

Twitter @kodamameko

(写真:玉井美世子)

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