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「クリエイティブってなんだべ」の初プレゼン。感涙の『気仙沼漁師カレンダー』第1作が完成! 【唐澤和也『海と生きる』試し読み】

想いを込めたプレゼンテーション

 2013年8月。気仙沼の四季を収めるという当初の目標から10か月がたっていた。「気嵐」と書いて「けあらし」と読む気仙沼の冬の風物詩を写真に収められなかったりはしたものの、藤井保とそのクリエイティブチームは、10か月間で合計7度の撮影をやりきったという、ある種の達成感に包まれていた。

 残るは、クライアントへのプレゼンテーションと、文章やデザインの仕上げなどの工程を経て、年内の発売に備えるだけ。世のカレンダーのすべてに文章が入るわけではないが、『気仙沼漁師カレンダー』のクリエイティブチームは、それが必要であると決める。漁師たちの仕事ぶりや感情を言葉の力で伝えることが、写真との相乗効果をうむはずだとの判断だった。クリエイティブディレクターの笠原千昌が、漁師たちへの丁寧な取材とコピーライティングを終えていた。

 撮影と取材は完了した。いざ、プレゼンである。

 プロデューサーの坂東美和子とアートディレクターの吉瀬浩司が、クライアントである「気仙沼つばき会」にプリントアウトした候補写真をもとに説明を加えていくのが一般的なプレゼンだ。ところが、藤井が「僕にプレゼンさせてほしい」と言う。

 藤井とは長い付き合いの坂東だったが、本人からプレゼンをしたいと言われるのは、はじめての出来事だった。坂東はうれしかった。よっぽどの想いと手ごたえが今回の撮影にはあったということだ。吉瀬と笠原も驚いていたが、異論などあるはずもない。

 プレゼン当日。気仙沼「斉吉商店」の「ばっぱの台所」という一室に関係者が集合した。ばっぱとは「おばあさん」のことで、斉藤和枝の母・貞子が、かつては漁師に食事を作るなどの世話をしていたことから、いまでも貞子が調理する一室を「ばっぱの台所」と呼んでいた。

 まずは、藤井とサン・アドチームが「ばっぱの台所」に入り、プレゼンの準備をした。
 藤井本人によって選び抜かれた30枚ほどの写真を、ふたつのテーブルに並べていく。
 右側には、表紙の1枚と各月の暦にあわせた12枚、巻末の1枚、あわせて14枚の写真。
 左側には、アザーと呼ばれる次候補の写真が並べられた。
 藤井のサービス精神だった。あくまでも彼の本命は右側の14枚だったが、ほかにも手ごたえのある写真が撮れていたから、それらも含めて「気仙沼つばき会」のメンバーに見てもらって、喜んでほしかったのだ。
 写真のセレクトは、藤井に一任されていた。すべての広告仕事の現場がそうであるわけではないが、写真のセレクトは写真家自らがするものであるというのが、藤井保の流儀のひとつであった。

「ばっぱの台所」に「気仙沼つばき会」のメンバーが招き入れられる。

 無邪気に喜ぶ彼女たちは、クライアントであると同時に現場で汗も流していた。「キャスティング」という役職も担い、「コーディネイター」として7度の撮影現場に立ち会っていた。その労が写真という形となった喜びがある。『気仙沼漁師カレンダー』の発起人である斉藤と小野寺紀子の喜びはひとしおだった。長野県へ向かう新幹線車内でのもうもうとした熱がなければ、このプロジェクトは始動していない。その熱に呼応するように、藤井をはじめとする一流のクリエイターが東京から何度も気仙沼を訪れてくれた。

 藤井が右側の写真のプレゼンを始める。

 だが、「気仙沼つばき会」メンバーの反応は鈍い。

 写真家のプレゼンを聞き終えると、斉藤と小野寺は無邪気に感想を口にした。それぞれの推しの写真を言い合ったりもした。ふたりが推す写真の多くが左側のアザーだった。
 右側には、秀ノ山雷五郎像の写真をはじめとする藤井セレクトによる写真たち。だが、気仙沼の女性たちのに落ちる写真ではなかったのだ。
 藤井は黙って彼女たちの感想を聞いていた。

 坂東は、気が気ではなかった。企業広告での通常のプレゼンならば、少なからずクリエイティブにかかわる宣伝担当者などがいるもの。でも、今日のこの場には、無邪気に写真の完成を喜ぶ女性たちが集まっている。写真のクオリティというよりも、スーパーヒーローである漁師が写っている写真を喜ぶ女性たちの集まりでもある。彼女たちの無邪気さは、まったくもって間違っていない。けれど、藤井の心中はいかがなものか。

 藤井もまた無邪気だったのだ。

 いい写真が撮れた、早くつばき会のみんなに見せたい。ともに喜んでほしい。そんなまっすぐな無邪気さが本人自らのプレゼンにつながっていた。無邪気なクライアントと無邪気な写真家。『気仙沼漁師カレンダー』のプレゼンは、そんな構図だった。

 しばらく続いた女性たちの喧騒ののち、藤井が静かに言った。

「今日はここまでにしましょう」

 言葉とシンクロするかのように、静かに、部屋をあとにする藤井。この時はじめて、「気仙沼つばき会」の面々は気づくのだった。

(あれ? もしかして私たち、やっちゃった?)

 どちらかだけに非があるわけではなかった。無邪気と無邪気の果てのこと。斉藤の言葉を借りるのなら「田舎のおばちゃん」にとって「クリエイティブってなんだべ」なのだから。

全10作のはじまりとなる「気仙沼漁師カレンダー2014」の表紙。「全国カレンダー展」で「経済産業大臣賞」を受賞した。
全10作のはじまりとなる「気仙沼漁師カレンダー2014」の表紙。「全国カレンダー展」で「経済産業大臣賞」を受賞した。

『気仙沼漁師カレンダー2014』完成! しかし……

「今日はここまでにしましょう」

 そんな藤井保の言葉のあとで、残されたプロデューサーの坂東美和子が動いた。

 斉藤和枝や小野寺紀子から、なぜ左側の写真を気に入ったかをヒアリングする。聞くだけではない。「気仙沼つばき会」としては引っ掛かりのあった写真も「絶対に掲載したほうがいいと思います」と提案した。

 たとえば、「第18共徳丸」が漁港から約750メートルも離れた気仙沼市街地に打ち上げられた一枚。藤井を頭とするクリエイティブチームとしては「マスト」な一枚であったが、気仙沼市民である「気仙沼つばき会」の感情としては、震災を忘れたい人たちには「マスト」どころか「マイナス」すら想像できる一枚だった。

 最終的に「第18共徳丸」の一枚は、「気仙沼漁師カレンダー発行にあたって。」という巻末の言葉とともに掲載された。その後、2013年10月には、「第18共徳丸」が撤去されたから、写真として残せたのは貴重であり、意味のあることとなる。

 巻末の言葉は「気仙沼つばき会」によって綴られたものだった。

2011年3月13日。被災してはじめて避難した高台からいつも暮らしていた魚市場の付近に降りてきた時、景色は、一面黒と灰色の泥と焼け焦げたガレキだらけでした。何もかもが失われ、絶望に包まれて立ち尽くしていると、市場の壊れた岸壁に、真っ白い漁船が入ってきました。それはそれは美しく「気仙沼には、漁船があった!」と思いました。変わり果てた現実の中に希望を見つけ、頼もしい思いでしばらく仰ぎ見ていました。・・・・ふと気がつくと、海も、空も、真っ青でした。

世界三大漁場である気仙沼には、全国から優秀な漁師さんが集まってきます。このように漁業が発展したのも、そのおかげだと思っています。経験と、勘と、覚悟を持って、いのちをかけて海とがっちり向き合う姿。私たち「気仙沼つばき会」は、そんな気仙沼のスーパーヒーローである漁師さんをもっともっと知ってほしくて、今回のカレンダーを企画しました。漁師さんは、気仙沼の自慢です。震災から2年が経ち、2014年3月で4年目を迎えます。今までも、これからも、漁師さんがいるからこそストーリーは始まるのだと信じています。

 さらに、カレンダー作りは続いた。坂東が「気仙沼つばき会」の希望を東京に持ち帰り、藤井とサン・アドのメンバーでセレクトを再考した。

 そして、ふたたびの気仙沼。秀ノ山雷五郎像の写真は掲載なし。代わりに漁師を主人公とする写真や、「出船でふねおくり」と呼ばれる気仙沼港の風物詩などが選ばれていく。

 表紙を含め、14枚すべての写真が決まった時、斉藤は涙を流した。

「こんなに素敵な写真をありがとうございます」

 そう言うと、小野寺も泣いていた。

 坂東の目からもこぼれるものがあった。坂東と長年仕事をともにしてきたアートディレクターの吉瀬浩司は、彼女が仕事で泣くのをはじめて見て驚き、自身も泣きそうになって涙をこらえた。

 2012年の冬から都合7度の撮影を重ねた『気仙沼漁師カレンダー2014』は、「第65回全国カレンダー展」の最高賞である「経済産業大臣賞」を受賞した。

 2024年3月。現在は故郷の島根県にアトリエを構える写真家の藤井が、気仙沼の「ばっぱの台所」での出来事を静かに語り始めた。

「つばき会の人たちが左側の写真を多く選んだのは、ショックはショックでしたよ、やっぱり。でもね、嫌な気持ちではなかったんです。だって、お互いの立場があるわけで、意見や感性の違いはあって当然のことですから。秀ノ山雷五郎像のことにしても、僕としては、漁師と横綱っていうのは同じ気仙沼の象徴じゃないかという気持ちで撮った。ものすごくいい霧も立ち込めてくれた。でも、つばき会の人たちは、漁師をリスペクトするなかでうまれた企画だから、許せなかったんだろうね。写真家になってはじめて自分でプレゼンしたんだけど、斉藤和枝さんに悲しいほうの涙を流させてしまった瞬間があったのはつらかったです。結局、僕らの時は、クリエイティブ側も、つばき会の人もはじめてのことでしたから。お互いに不慣れななかで、でもお互い真剣にぶつかったのだと思います」

 晴れ晴れとした表情で、藤井は言葉を続けた。

「『気仙沼つばき会』の人たちとたくさん話して、なかでも印象的だったのが、避難所での男女の違いについてなんです。男は失くしたものの大きさに呆然と立ちすくむ。でも、女の人は今日食べるものをどうしようと考える。男のように立ちすくまないし、止まらない。この生理の違いを僕はものすごく理解できました。こういう時に女の人はやっぱりやさしくて強いんだなぁって。そういう意味でも僕は、『気仙沼つばき会』をリスペクトするんです。彼女たちだからこそ、このカレンダーは10年も続けることができたのだと思うな。たとえばだけど、大手出版社だったら、10年は続けられなかったかもしれない」

 すべてのはじまりの『気仙沼漁師カレンダー2014』が完成した。

 価格は2000円、印刷部数は5000部に決まった。「気仙沼つばき会」メンバーの人件費はボランティアだからよしとしても、印刷代を含めた制作費がかかっている。そこから算出した価格と部数だった。  

 その印刷部数を聞いて、カレンダー業界に詳しい知人が「そんなに刷って大丈夫? アイドルのカレンダーでも3000部ぐらいらしいよ」と教えてくれた。その言葉を聞いて「気仙沼つばき会」の面々はふたたびのあの言葉を心の内で繰り返すのである。

(あれ? もしかして私たち、やっちゃった?)

『気仙沼漁師カレンダー』は作ったら終わりではなかった。作ったからには、売らなければいけなかった。売らなければ赤字である。この日から、「気仙沼つばき会」の「売っぺ! 売っぺ! 売っぺ!」な怒涛の販売の日々が始まるのだった。

以下、2章以降に続く。続きはぜひ単行本でお楽しみください

『海と生きる 「気仙沼つばき会」と「気仙沼漁師カレンダー」の10年』刊行特集一覧

【「海と生きる」プロローグ試し読み】 気仙沼の自称「田舎のおばちゃん」集団が、なぜ日本を代表する写真家たちと『気仙沼漁師カレンダー』を作れたのか?

【「海と生きる」1章前半試し読み】 「まだまだ気仙沼は大丈夫だ」、震災2日後にそう信じることができた白い漁船

【タカザワケンジさん書評】 主役の「気仙沼つばき会」と漁師に、写真家が加わったことで奇跡的な「物語」になった

【「海と生きる」1章後半試し読み】 「クリエイティブってなんだべ」の初プレゼン。感涙の『気仙沼漁師カレンダー』第1作が完成!

10名の写真家のフォトもカラー収録!

藤井保・浅田政志・川島小鳥・竹沢うるま・奥山由之・前康輔・幡野広志・市橋織江・公文健太郎・瀧本幹也――日本を代表する10名の写真家が撮影を担当し、2014年版から2024年版まで全10作を刊行。国内外で多数の賞も受賞した『気仙沼漁師カレンダー』。

そのきっかけは、地元を愛する女性たちの会、「気仙沼つばき会」の「街の宝である漁師さんたちを世界に発信したい!」という強い想いだった。本人たちいわく「田舎の普通のおばちゃん」たちが、いかにして『気仙沼漁師カレンダー』プロジェクトを10年にわたり継続させることができたのか。被写体となった漁師、撮影を担当した10名の写真家、「気仙沼つばき会」ふくむ制作スタッフなど徹底取材。多数の証言でその舞台裏を綴る。元気と感動と地方創生のヒントも学べるノンフィクション。

10名の写真家が選んだカレンダーでの思い入れの深い写真や、単独インタビューも掲載。写真ファンにとっても貴重な一冊でもある。

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唐澤和也

からさわ・かずや●1967年、愛知県生まれ。 明治大学卒業後、広告代理店勤務を経てフリーライターに。
単著に『負け犬伝説』『マイク一本、一千万』(ともに、ぴあ)、 企画・構成書に、爆笑問題・太田光自伝『カラス』(小学館)、 田口壮『何苦楚日記』(主婦と生活社)、 森田まさのり『べしゃる漫画家』(集英社)などがある。

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