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北京五輪開幕記念! フィギュア五輪初メダリスト伊藤みどりのトリプル・アクセルは、鳥肌が立つほどの完成度だった

美しい回転

 水平方向のスピードを正確な踏み切りによって垂直方向のエネルギーへと変換し、そこに人並み外れた跳躍力が加わったとき、フィギュアスケートのジャンプは人間の眼にどのように映るのか。極端なことをいってしまえば、みどりのジャンプは、まず高く上がって跳躍の頂点に達してから回転を始め、下降局面で軸のブレがない正確な回転をしているように映ります。フィギュアスケートの世界で「ディレイド」と呼ばれる美しさの点でも理想的なジャンプなのです。

 実際には、踏み切る瞬間から回転のための力を加えなければ3回転半も回ることは不可能ですが、彼女のジャンプは上昇軌道のときにはスピードとバネで生じた垂直方向のエネルギーが強過ぎるほど働いていたのでしょう。そのエネルギーを使い終わり、ジャンプが着氷に向けて下降軌道に入ったところでようやく、すでに回転のために加えておいた力が常人の眼にも明らかになってくるのだと思います。

 2021年3月の世界選手権で2位に入った鍵山優真は、試合で使う4回転のジャンプはトウループとサルコウ、ループですが、3回転のジャンプは公式戦でも6種類すべてを高いレベルで成功させています。そして、そのジャンプはどれも、着氷時に、フリーレッグ(着氷に使わない、もういっぽうの足)をサアッと後ろに伸ばしながらの優美なランディング。しかも、彼のランディングは、ほとんど音がしません。これは、水泳の飛び込み競技で着水の際に飛沫が上がらないのと同じで、無駄なエネルギーが漏れていないことを示すものです。みどりのジャンプも、やはり無音でした。「まず上がって、回りながら降りてくる」という感覚のジャンプも、現在の鍵山は持ち味としています。

 また、美しいジャンプのためには、重要な要素として「ブレのない回転軸」も必要不可欠です。フィギュアスケートの選手がジャンプして、空中で回転しているときに両腕を胸の前で「X」を描くように固く結んでいる姿は多くの読者の記憶にあるでしょう。あれは、わたしのような関係者の間では「締める」と呼ばれる動作。空中で回転軸を確定させるためのものです。
 あの動作をせずに両手を身体の周囲で自由にさせていれば、左右それぞれの腕に遠心力が加わり、軸を安定させる妨げとなります。また、たとえ遠心力が均等に加わるように手を伸ばしたとしても、回転速度は弱まります。そして、逆説的ないい方になりますが、このように回転軸をブレずに確立することによって、見た目には、ゆっくりと(余裕を持って)着氷するジャンプが可能になるのです。コマがどのように回っているか、倒れる前にどのような回転になるかを思い出せば明らかでしょう。

 みどりは、この〝回転軸の作り方〟も非常に巧みでした。現役の選手では羽生もネイサン・チェンも回転軸の作り方が非常に巧みです。
 ただし、空中での「締める」動作に力を入れ過ぎてはいけません。自分自身が踏み切って跳び上がったジャンプのなかで、回転に身を委ねながら、回転軸を身体の中心に持っていく感覚が必要になります。この感覚・技術も、みどりは比類のないものを持っていました。

11歳、NHK杯での伊藤みどり

 前述した1980年の第2回NHK杯・札幌大会で、エキシビションとして11歳の伊藤みどりが演技する姿は、NHKが大会の模様を伝えた中継のなかで放送していて、録画が残されています。

 元気いっぱいでリンクに飛び出してきたみどりは、ウォーミングアップ中にジャンプのあと、勢いあまってフェンスに手を突いてしまいます。会場は、ほぼ満員。これだけの大きな会場で、大勢の観客を前に滑るのははじめての体験ですから緊張していたのでしょう。しかし、萎縮はしていなかった。それが、この小さなアクシデントにも表れていたと思います。
 短いウォーミングアップを終えて演技へ。解説者の席には佐野稔と、前シーズンのレークプラシッド五輪で6位入賞を果たして現役を引退した渡部絵美が座っていましたが、みどりが3回転トウループから2回転ループへのコンビネーション・ジャンプを決めると、ふたりとも大興奮。当時、身長123センチの彼女が驚くほど高いジャンプを披露することに驚き、佐野は「この小さな身体のどこに、これだけのバネが秘められているのか」とコメントしています。やがて、観客もみどりの演技に魅了され、手拍子で盛り上げます。渡部は「年齢制限で今日の大会に出場できなかったのが、本当に残念です」と語りました。

 約2分間の短いエキシビションを締めくくったのはダブル・アクセルですが、その高さ。まさに彼女の素質と、のちに女子選手として世界ではじめてトリプル・アクセルを成功させる可能性を十分に感じさせるものでした。また、ジャンプだけでなく、ステップ、スピンでも成長過程ながら正確な技術を披露しました。
 特にステップは、フィギュアスケートではつねに左右どちらかのエッジに正しく乗ること、つまりスケート靴のブレードが真っ直ぐ立つことのないようにするのが基本ですが、この基本が忠実に守られていました。また、キャノンボールを含めて数種類を披露したスピンは、彼女のジャンプにも通じる美しい回転で、正確に軸が作れていることを示す演技でした。

 フィニッシュのI字スピンでは尻餅をついてしまいますが、これにも会場からは大きな歓声。エンターテイナーとしての才能も発揮したといえるでしょう。わたしは会場で連盟のスタッフとして例によって駆け回っていましたが、この演技のときは静かに見守りました。そして、みどりが思惑通り、世界を狙える器であることを確信していたのです。

「伊藤みどりプロジェクト」の始動

 小学2年のみどりに出会って、日本スケート連盟が打ち出した10年計画「伊藤みどりプロジェクト」は、技術面の指導を前提としたタイムスケジュールとして次のようなものでした。最終目標は、彼女が22歳というフィギュアスケーターとしての成熟した年齢で迎える92年のアルベールビル五輪での金メダル獲得です。

 オリンピックは、やはり特別な舞台です。どんなに実力があっても初出場では成功を収められない可能性が低くありません。そのために、84年のサラエボ五輪、88年のカルガリー五輪に出場させ、オリンピックに〝場慣れ〟させようというものです。84年のサラエボ五輪を迎える時点で、前述した規定によれば彼女はまだ〝13歳〟の扱い。2006年のトリノ五輪への出場が許されなかった浅田真央と同じ年齢ですが「シニアの大会への出場資格は15歳以上」という現在の規定が生まれたのは1998年の長野五輪で当時15歳のタラ・リピンスキーが優勝し、直後にプロ転向したことがきっかけといわれています。また、みどりの時代には「世界ジュニア選手権で3位以内に入れば同シーズンのオリンピックへの出場権を得られる」という特例措置も用意されていました。

 みどりはスケーターとして順調に成長していきました。しかし、この10年計画は彼女の度重なるケガによって順調には進まず、修正を余儀なくされていったのです。最初は82年の世界ジュニア選手権。オリンピック出場への特例措置を充たす「同シーズンの世界ジュニア選手権での3位以内」が適用されるのは2年後の84年大会ですが、すでに前年の同大会に出場し、フリーの演技では1位、総合でも8位の成績を収めていた彼女には、できれば優勝してもらいたい大会でした。

 ちなみに、84年の世界ジュニア選手権、つまり、みどりがサラエボ五輪に出場するためには最低でも3位以内に入らなければいけない大会に向けて、手は打ってありました。現在、オリンピック直前のグランプリファイナルが毎回、日本で開催されているのは前述の通りですが、このときも、みどりをオリンピックに参加させるためのプロジェクトチームを立ち上げてロビー活動を展開し、84年世界ジュニア選手権の開催地を札幌に誘致することに成功していたのです。
 ただ、この時点では「伊藤みどりプロジェクト」は日本スケート連盟に正式に承認されていたわけではなく、この82年の世界ジュニア選手権で好成績を収めさせることで、わたしたちが連盟を説得する計画でした。しかし、焦点となる世界ジュニア選手権を目前に控えた82年11月、山田満知子コーチからわたしのもとに電話が入ります。

「みどりが右足首を骨折しました……」

文中一部敬称略。後編はこちらから!

フィギュアスケート観戦をよく深く面白く!

伊藤みどり、荒川静香、安藤美姫、浅田真央、高橋大輔、羽生結弦、宇野昌磨、鍵山優真……日本フィギュアスケートを世界の頂点に導いた裏には、日本人ならでは特性を生かした高度な技術「ジャンプ」という武器があった――。スケート連盟強化部長・国際審判員として長く舞台裏で活躍してきた著者が記す、日本フィギュアスケートの技術の歴史書。

書籍『たかがジャンプ されどジャンプ 日本フィギュアスケートに金メダルをもたらした武器』の詳細はこちらから

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新刊紹介

城田憲子

しろた・のりこ●1946年東京都生まれ。フィギュアスケート女子シングルおよびアイスダンスの選手として活躍。全日本選手権アイスダンスで2連覇。引退後、94年から2006年まで日本スケート連盟フィギュア強化部長を務める。
06年トリノオリンピックでは荒川静香の日本初の金メダル獲得を牽引。ISU(国際スケート連盟)レフェリー・ジャッジの資格を持ち、長年にわたりオリンピックや世界選手権などで審判員も務めた。

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