2022.2.7
フィギュア日本人初五輪メダリスト、伊藤みどりがパリで見せた伝説のフリー
ケガとの戦い
(前編より続く)
このときは、すぐに目標を翌々シーズンに札幌で開催される世界ジュニア選手権に切り替え、結果的にこの大会で3位に入りオリンピック出場への特例措置を受ける権利を得ます。当時のコンパルソリー(規定)では13位と沈んだものの、続くショートとフリーで1位となる気迫の演技でした。しかし、スケーターにとって大ケガといえる足首の骨折は、みどりの演技にしつこく影を落としていました。オリンピックへの代表選手選考の場でもある1984年1月の全日本選手権で優勝を逃し、当時は1枠しかなかった日本からのオリンピック派遣選手の座を同大会で優勝した加藤雅子に譲ったのです。
その後、翌1985年に伊藤みどりは全日本選手権で初優勝を飾って以降、圧倒的なパフォーマンスを示しつつ8連覇を達成しますが、最終目標へのマイルストーンとしていた「サラエボ五輪出場」が実現できなかったことが10年計画にとって大きな頓挫となったことは事実です。トップレベルにあり、さらに、そこから上を目指そうというアスリートにとってケガは、つねにつきまとう影のような存在です。しかし、敢えていえば、82年のみどりの右足首骨折には、ふたつの要因が背景としてあったと思います。
ひとつは、前述したようなスケーティングの圧倒的なスピード。このスピードによってジャンプの高さがもたらされるわけですが、クルマの運転と同じようにスピードの出し過ぎはアクシデントにつながります。そして、彼女は高くジャンプするために、恐怖も忘れて限界ギリギリのスピードで氷上を滑走していきました。
もうひとつは、彼女の食生活です。前述のように山田コーチが一時期、自宅に住まわせ栄養面も含めて彼女を指導していましたが、それでも彼女の偏食は完全には治らなかったのだと思います。
みどりは、わたしが出会った頃には菓子パンが好物でした。その後、山田コーチと連携しながら「今日、みどりは魚を食べましたよ」といった情報を共有しつつ、食生活の改善を図りましたが、やはり限界があったということでしょう。
もちろん、みどり本人の責任ではなく、わたしや山田コーチが今日の最先端といえるような栄養学や、それを実践するために必要となるメンタル・ケアの知識を持っていたらと悔やまれるのです。
フィギュアの原点、コンパルソリーが苦手
みどりはジャンプの天才でした。しかし、フィギュアスケートではジャンプだけが採点の対象となるわけではありません。ジャンプ、ステップ、スピン、表現力が、フィギュアスケートのジャッジにとって採点の対象となる4大要素です。
また、すでに少し触れましたが、みどりの時代と現在のルールは大きく異なります。20042〜05年シーズンから毎年、若干の改正を重ねながら運用されている現在のルールでは、6種類のジャンプをに個々の基礎点が定められていて、さらにGOE(出来ばえ点)によって-5(50パーセントの減点)から+5(50パーセントの加点)まで基準点が加減されます。
ジャンプの場合、加点の要素となるのは「高さと距離が十分である」「踏み切り、着氷の正確さ」「無駄な力が入っていない」などで、「音楽と合っている」こともプラスの要素となります。逆に、着氷に失敗して転倒した場合は-5となり、トリプル・アクセルならば基礎点である8.00から50パーセント減点され4.00になってしまいます。これは基礎点が3.30のダブル・アクセルを+5の完成度で跳んだ場合の4.95よりも低い点数です。
このように採点されるのが「技術点」。そして、スケート技術・要素のつなぎ・演技・構成・音楽の解釈という5つの要素(ファイブ・コンポーネンツ)を評価する「演技構成点」が加算され、最終的な得点が決まる。これが現在のルールです。では、みどりの現役時代は、どのように得点を決めていたのでしょうか。
まず、現在の技術点に代わるものがテクニカル・メリット(フリーの場合。ショートプログラムではリクァイアード・エレメンツと呼ばれていました)で、演技構成点に代わるものはアーティスティック・インプレッション(芸術点。のちのプレゼンテーション)と呼ばれていました。技術と芸術性や美しさの両面を採点するという点では現在も同じですが、当時はアーティスティック・インプレッションとテクニカル・メリットの比重がイーブンで、さらに総合得点で並んだ場合には、アーティスティック・インプレッションの得点が高い選手が上位になるなど、現在以上に芸術性が重視されていたのです。
そして、どちらの採点も6点満点方式。また、ショートのリクァイアード・エレメンツでも、ジャンプを試みて着氷時に転倒したらマイナス0.4点という減点の基準は決められていたものの、現在のようにトリプル・アクセルは8.00といった要素ごとの基準点は設けられていませんでした。
つまり、演技全体を観察し、まさにインプレッション(印象)で点数が決められていたといっていいかもしれません。そのため、前述したような、みどりとカタリナ・ヴィットの得点を巡ってのジャッジ間の論争も起きていたのです。さらに、みどりの現役時代の途中(1989〜90年シーズン)までは、ショートとフリーにコンパルソリー(規定)を加えた3種目の合計点で勝敗が争われていました。
コンパルソリーというのは、氷上を滑走しながら課題の図形を描いていくもので、スケーティングの基本技術と滑走中の姿勢が採点の対象となります。そもそもフィギュアスケートの「フィギュア」という言葉は、この図形を意味するものです。つまり、フィギュアスケートの原点ともいえる種目ですが、みどりはこれが苦手でした。
彼女のスケーティング技術に問題があったのかというと、そうともいい切れません。正確な技術によるスケーティングができなければ、例のカウンター・ターンからのアクセル・ジャンプを豪快に決めることはできなかったはずです。事実、5連覇を達成した89年の全日本選手権では、コンパルソリーでもはじめて1位の成績を残しています。
たぶん、最大の問題は、彼女の性格がコンパルソリーに向いていなかった点にあるのではないでしょうか。彼女にとっては、大好きなジャンプを跳ぶことがフィギュアスケートをやる目的のようなもので、コンパルソリーで地味に図形を描くことは興味の対象外だったのだと思います。前述の通り、84年の世界ジュニア選手権で3位入賞を果たしたときも、コンパルソリーでは13位という散々の成績でした。
たかがジャンプ、されどジャンプ
みどりが銀メダルに輝いた1992年のアルベールビル五輪の時点で、すでにコンパルソリーは廃止されていました。しかし、そもそも小学2年のときにはじめて出会って以来、彼女は終始一貫して「ジャンプの申し子」でした。そして、彼女のジャンプを見たとき、わたしは「日本人が世界で勝つための武器はジャンプしかない!」と確信したのです。
みどりが苦手にしていたコンパルソリーや、技術面でジャンプ以外に採点の対象となるステップ、スピンに関しては、やはり本場である欧米選手に一日の長があるのは否めません。そんな条件下で日本人が武器とすべきは、やはりジャンプなのです。その理由は、まず「手足が長過ぎない」という特徴を持つ日本人(アジア人)の体型にあります。
欧米人の長い手足は、演技全体を優美に表現する上ではひとつの武器になります。しかし、ジャンプで回転軸のブレを抑えようとする際には、長い手足は扱いの難しいパーツとなるのです。そして、みどりとの出会いを機にわたしのなかで確信となった「ジャンプこそ日本人の武器」という戦略は、それ以後も、日本人選手の育成に携わり、世界の頂点を目指すわたしたちにとって普遍的なアプローチとなっていきました。
フィギュアスケートの技術面で評価の対象となるのはジャンプ、ステップ、スピンの3要素ですが、現行ルールで技術点に演技構成点を加えた最高得点(2021年11月時点)を詳細に調べると、次のような事実が浮かび上がってきます。
男子ショートプログラムにおける最高得点は、20年の四大陸選手権で羽生結弦が記録した111.82点。そのうちの技術点は70.34パーセントをジャンプが占めています。男子フリーはネイサン・チェンが19年のグランプリファイナルで記録し(224.92点)、ジャンプが81.59パーセント。女子ショートプログラムの最高得点は21年のロステレコム杯でカミラ・ワリエワ(ロシア)が記録した87.42点で、ジャンプの得点が61.85パーセントを占めています。そして、女子フリーでも同大会でワリエワが記録した185.29点のうち、ジャンプが77.20パーセントを占めているのです。
男女を問わず、ショートプログラムでもフリーでも技術点のうち60パーセント以上がジャンプによってもたらされているのです。もし、この時代にみどりが現役だったら……。コンパルソリーが廃止されたからアルベールビル五輪で銀メダルを獲得できたのではなく、むしろ金メダルが確実だったといえるでしょう。
そして、22年の北京五輪でオリンピック3連覇を視野に現役を続行する羽生結弦が前人未到のクワッド・アクセルに挑戦し続ける理由も、やはり「たかがジャンプ、されどジャンプ」という事実を踏まえた上での選択なのです。