2020.10.14
不倫どころか二股三股も当たり前!? 中世の恋は大胆でおおらかでした〜額田王vs.和泉式部
和泉式部もまた、二人の皇子に愛された人です。この人の歌が、僕は非常に好きなんですよ。
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月
この叙情のあり方はただごとじゃないな、と思う。
和泉式部は国司、今でいえば県知事のお嬢さんとして生まれる。最初の夫は橘道貞。この人も国司ですから、家柄のバランスのとれた夫婦でした。二人の間には、女の子が生まれ、後に小式部内侍、ちっちゃい式部と呼ばれるようになります。この人も非常に才能豊かな歌人でした。
橘道貞が和泉守、今ならば大阪府知事といった官職について任地に下向するときに、和泉式部もついていく。彼女が「和泉式部」と名乗ったのは、元の夫が和泉守だから和泉。式部とは、おそらくお父さんが以前、式部省でなにか官職を持っていたということで、このふたつをくっつけて「和泉式部」となった。そういう話になっているようです。
当時の国司の任期は四年。しかし、任期を終えて京都に帰ってくるころには、どうもこの二人はうまくいかなくなっていたらしく、別居していた。
そこにあらわれたのが、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王です。この親王が和泉式部に入れあげて、二人は男女の関係になってしまった。県知事の娘さんと皇族。現代ならばどうでしょうか。当時この恋は「身分違いの恋」ということで、スキャンダルになりました。和泉式部のお父さんが「あまりにもよろしくない」と、娘を勘当したという話もあります。男女の仲については極めてユルユルというか、どんなことでもウエルカム、全然オーケーだったはずの平安時代でも、二人の関係は身分違いとして非難された。この点が面白いと思います。
ただし為尊親王は、わりと若くして亡くなってしまう。そうしたら和泉式部はまた、為尊親王と同母兄弟の敦道親王と恋愛関係になった。この敦道親王との間には男の子が一人生まれているのですが、こちらはお坊さんになって、子孫は残さないという体裁になったみたいですね。
親王二人に愛されたということで、和泉式部はずいぶんと恋愛上手であるといわれます。といっても、ニュアンス的にはあまりよくなくて「浮かれ女」と呼ばれた。藤原道長による和泉式部評として“浮ついた女みたいな”、そんな言葉が残っています。今風にいうと「ビッチ」ということになるのでしょうか。だけどそういいながら、道長は自分のいちばん大事な娘、一条天皇のお后の彰子に仕える女官として、和泉式部をスカウトしています。女官の同僚には紫式部もいましたから「競演」ですね。
和泉式部は紫式部をどう見ていたのかな。妄想タイプの紫式部に対して、みずからが恋愛上手だった和泉式部は「あなた、創作は上手だけど、リアルの恋の道は全然オクテよね」とか思っていたかもしれませんね。
和泉式部はその後、藤原道長の側近の一人、藤原保昌という、貴族なのに武芸の達人だった人と結婚するのですが、二人の間に子どもはいませんでした。だから血縁というと、最初の結婚のときに生まれた小式部内侍と、お坊さんになった、親王の息子さんしかいなかった。お母さんとしては、特に娘を頼りにもし、かわいがっていた。小式部内侍はお母さんに先立って亡くなってしまうのですが、そのころに和泉式部が詠んだ歌に非常に胸を打つものが多い。やっぱり、和泉式部は気持ちの豊かな人だったんだろうね。