2020.10.6
船の事故物件 『海の怪』刊行記念 鈴木光司の特別書き下ろし
メカニックとしての腕は一流だが、川口誠二(65歳、仮名)は心にちょっとした闇を抱えていた。些細なことで苛立ち、何でも妬み種に変えて心の底に溜め込んでしまうのだ。
スカッと気分が晴れた経験はなく、常に欝々としているせいで、身体の代謝機能が弱まっていたと容易に想像できる。会う人間はみな、見るからに不健康そうな印象を持ったというから、血管かどこかに持病を抱えていたのかもしれない。独身の一人暮らしで、健康を気遣ってくれる人間がだれひとりそばにいなかったため、人間ドックに受けたこともなく、健康管理はおろそかであった。
川口の身体に比べ、まだしも「ラッキーボーイ」の点検整備は入念であったといえるだろう。
そのせいで、新艇にもかかわらず、プロペラシャフトの軸受け部分に構造的な欠陥が見つかり、部品交換の必要が生じてしまった。
夏の日の午後、イタリア本国に部品を発注する前の確認作業で、川口は、「ラッキーボーイ」のエンジンルームに降りることになった。
地方都市郊外のマリーナは土地にだけは充分な余裕があり、コンクリートに覆われた広大なメンテナンスヤードに人気はなく、閑散としている。
クレーンで陸揚げされた「ラッキーボーイ」は、ヤードの中央に鎮座する鋼鉄製の頑丈な船台に載せられていた。
川口は、陸上数メートルの高さに浮かぶ20トンの船体を見上げ、額の汗を拭った。
真下に立って船の重量を受けると、気温が上昇したように感じられる。
陸揚げされて船台に載せられると、船は、桟橋に浮かんでいるときより大きく見える。海面下に隠れていた船底が露になり、ボリュームが増すからだ。
川口は船尾側に脚立を立て、3メートルばかりの高さを上って、デッキ後部へと飛び移った。
梅雨の合間の陽光にさらされた密閉空間の気温は思った以上に高く、床のハッチを開いた瞬間、下から熱気が立ち上ぼってきた。
川口は、ぼんやりと佇んだまま、足下に開いた長方形の穴を見下ろした。
広さ4メートル四方、天井高約1.8メートルの直方体の空間に500馬力の出力を持つ巨大なディーゼルエンジンが2基並んでいた。エンジンとエンジンの間には1メートル弱の隙間があって、点検整備のためのスペースが保たれている。
普段なら躊躇なくステップを降りていくのに、その日に限って、なぜか足がすくんだ。
……さっさと仕事を終えよう。
嫌な予感を振り払ってステップに爪先をかけたとたん、足先に痺れを感じて滑りかけた。とっさに身体を支えようとして、直立に近い角度に跳ね上がったハッチの取っ手を掴んだが、ステップを踏み外して滑落し、体重に引っ張られてハッチが閉まった拍子に手を放した川口の身体は、FRP(繊維強化プラスチック)製の床に叩きつけられ、反動で、エンジンの角に後頭部をぶつけた。
すぐに意識を失い、次に目覚めたとき、川口は、自分の身に起こった事態を即座に把握することができなかった。目を開いているはずなのに、何も見えない。ハッチが閉じられたエンジンルームに外部の光は届かず、真の闇に包まれていた。
闇の中、後頭部に手をやると、首筋のあたりにぬめぬめとした感触を得た。痛みはなく、血か、汗か、判断できない。
そのまま上半身を起こそうとして、強烈な眩暈に襲われた。
身体を元に戻し、あお向けの姿勢のまま、ステップを踏み外し、ハッチの取っ手を掴んだまま滑落して、自分が今、ふたつのエンジンの隙間で横たわっていることが理解されてきた。ただし、時間経過がわからない。腕時計をする習慣はなく、スマホを収納したバッグは車の助手席に置いたままである。部品交換の確認など、ほんの数分で終えるつもりだった。
時間を置いた後、ゆっくり身体を起こそうとしたところ、今度は胸の中で心臓が暴れ、全身の毛穴から汗が噴出した。うだるような暑さの中、悪寒を伴う冷たい汗が腹から背中へと滴り落ちていく。
失神と覚醒を繰り返すうち、意識は斑になり、ますます時間経過が把握できなくなっていった。
目を開いて現実の目で見る暗黒と、両目を閉じて瞼の裏に映る暗黒との間に、大きな違いがあった。現実の風景は情け容赦のない黒色に塗られている一方、瞼の裏に垂れる暗幕は緑がかって、明るい輝きに満ちている。
川口は、自分の身体が抱えていた障害が、ここに来て露呈し、そのせいでステップを踏み外したのではないかと思い至った。
第一に疑われたのは脳梗塞である。以前、前兆と思われる軽い症状が出たことがあったが、医者にも行かずに放置した。
そう思うと、悪寒と震えが大きくなり、喉の渇きが我慢できなくなる。
ごく自然に死が意識されてきた。
マリーナ専属のスタッフなら、なんらかの異変が起こればすぐにチェックされ、捜索されるだろうが、川口は、オーナーのO氏から個人的な依頼を受けて整備を行う外部メカニックだ。O氏は、部品交換を命じたままハワイに飛んでしまったため、自分が今エンジンルームにいることを知っている者はだれもいない。
一人暮らしの身ゆえ、孤独死を仮想したことは何度もある。その舞台は常にアパートの一室だった。まさか、豪華クルーザーのエンジンルームになるとは予想だにしなかった。
これまでの人生を振り返れば、反省すべき点は多々ある。30代のとき、結婚を考えた女性がいたが、面倒臭さが先に立って先延ばしにするうち、関係は自然消滅してしまった。あのとき、結婚に踏み切っていれば、後の人生は変わっていただろうと思う。少なくとも、狭く暗いエンジンルームで誰にも看取られずに死んでいくなんて事態にはならなかっただろう。
……だれか、助けてくれ。おれはここにいる。
叫んだつもりでも、呂律が回らず、声は弱々しい。たとえ大声を出せたとしても分厚いFRPに遮られて、音は外まで届かないだろう。
悪寒と震えが、孤独感を押し上げてきた。自分が今ここにいることを、外の世界にいる人々に知ってほしかった。どうすれば、生きてきた証しを残すことができるのか。どうすれば、外に向かって存在をアピールすることができるのか。密閉された穴ぐらにいても、外部と繋がるルートがどこかにあるはず……。
人間の生死はある瞬間をもってスパッと決まるものではない。呼吸が止まり、心臓が止まった後も、脳内を巡る細々とした血流に支えられ、しばらくの間は、意識が残る。
血流が消え、意識が完全にシャットダウンするまでの数分間、消えゆく彼の魂は、自己アピールの実現ばかりを念じ続けた……。
……おれはここにいる。おれはここにいる。だれか、気づいてくれ。
エンジンルームの底で川口が息を引き取ったのは、滑落した4時間後のことだった。すぐに夕暮れがやってきて「ラッキーボーイ」は星空の下に放置された。
翌日、朝一番にやって来たマリーナスタッフは、船内に人がいるとは露疑わず、脚立を運び去って別の船に立て掛けた。
川口の訴えはだれにも届かず、無視された。
その一方で、地上数メートルの高さに固定された「ラッキーボーイ」本体は、存在感を必要以上にアピールし、まさに空に浮かぶ巨大な棺と呼ぶに相応しい偉容を誇っていた。
ようやく棺桶の蓋が開かれたのは、死から十日ばかり経過した後のことである。