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船の事故物件 『海の怪』刊行記念 鈴木光司の特別書き下ろし

船の事故物件 『海の怪』刊行記念 鈴木光司の特別書き下ろし

 ハワイから帰国したO氏は、部品交換作業の進捗状況について尋ねるべく、川口と何度か連絡を取ろうとしたが一向に繋がらなかった。
 業を煮やしたO氏は、マリーナ事務所に連絡を入れ、スタッフを派遣してエンジンルームをチェックさせることにした。
 たまたま手が空いていて、任務を言い付けられたスタッフのNくんは、保管艇の中で一際豪華な「ラッキーボーイ」の船内に初めて入れるとあって、どこかうきうきとした気分でメンテナンスヤードまで早足で歩いた。
 それが人生最大の貧乏クジであり、生涯消えることのないトラウマを抱えることになるとは知るよしもなく……。
 梅雨明け宣言が出て数日後のその日、連日の猛暑が続いて午後の最高気温は35度を超えようとしていた。
 脚立を上がって、デッキに立っても、Nくんの胸に警戒心は微塵もなかった。
 エンジンルームに潜ってプロペラシャフトの軸受け部分をチェックしてこいと、命じられただけなのだから無理もない。
 異常事態への備えが事前にある場合と、ない場合とでは、後者のほうが被害はより甚大となる。鼻歌をうたいながらハッチを開けた瞬間に、Nくんがとったリアクションは、地下から吹き上がる爆風を浴びたときと似ていた。
 実際に空気の動きはなかったはずなのに、突如噴出した臭気に煽られ、上半身をのけぞらせたNくんは、そのままよろけるようにデッキの端まで駆け寄って嘔吐した。
 炎天下に放置された船のエンジンルームで遺体は見事なまでに熟成され、内部は惨状を極めていた。エンジン下部に後頭部をもたせかけた格好で横たわる、かつて人間であった物体から滲出した血と体液は、船底部のビルジ溜まりに向かって澱んだ流れを作り、白くつるりとしたFRP製の床のところどころには、赤黒いゼリー状の塊となって腐敗した肉がこびりついていた。塊の表面が蠕動しているのは、密閉空間にもかかわらず侵入した蠅が産卵して無数の蛆虫がわいていたからだ。
 すぐに警察が呼ばれ、捜査が行われたが、エンジンルームに川口以外の人間がいた痕跡は皆無であり、彼の死は事件性のない突然死として扱われることになった。
 遺体が運び出された後にやってきたのは、事故物件の後始末を専門に請け負う清掃業者のSくんであった。
 その頃はもう、「ラッキーボーイ」は桟橋に移動されて陸電(船舶に対する陸上からの電気供給システム)とケーブルで繋がれ、家庭と同じAC電源の使用が可能となっていた。
 Sくんは、エアコンをがんがんに効かせた上で、キャビンの真下にあるエンジンルームに籠り、手際よく掃除していった。
 傍目には過酷な仕事と見えただろうが、経験豊富なSくんにしてみれば、今回の仕事はまだしも楽な部類に入る。一般家屋で人間が死んで放置されると、遺体から滲出した血や体液は畳や絨毯に染み込み、酷い場合にはその下の板床さえ通過して階下に滴り落ちることもあり、そうなると、もはや手に負えなくなる。しかし、水を通さないFRPの上なら、遺体の後始末はバスタブで亡くなった場合とそう変わらず、専用の洗剤を散布した上で、モップとブラシで洗い流すだけですむ。オートビルジをオンにするだけで、船底に溜まった汚水は自動的に船外へと排出される。
 清掃作業は順調に進み、一息つくためにエンジンルームから桟橋に降りたSくんは、煙草を吸いながら何気なく「ラッキーボーイ」の船腹に目をやった。「ゴゴゴゴゴ」とオートビルジが作動し、ポンプで吸い上げられた汚水が、舷側船尾側に開いたドレーンホールから排出されている……。
 Sくんの目に、それは、純白の船体から流れ落ちる血の涙と見えた。
 エンジンルームに戻ったSくんは、同じ手順を幾度となく繰り返して血溜まりを洗ったが、ドレーンホールから流れ出る汚水にはいつまでも赤い色が混じり続けた。

 こうして、遺体の痕跡があらかた洗い流され、消臭スプレーで仕上げをされた船は、事情を知っている瀬戸内海のマリーナに安く買われ、外装と船名を変えた上で、事情を知らない横浜のA氏の手に渡り、竹村さんの会社に管理運航が委託されることになったのだった。

 そこまで話したところで、竹村さんは、「いやあ、参りましたよ」と溜め息をついた。
 余計な裏事情を知ってしまったせいで、会社がダブルバインドに陥ってしまったというのだ。
 A氏に真相を告げればまちがいなく船は売りに出され、安定収入を生む委託艇が1隻減ることになる。首尾よく買い換えが成立し、新しい船の管理を請け負うことができればいいのだが、その場合は、売買の仲介を任されて次なる犠牲者を探す片棒を担がされる羽目になる……。かといって、真相を隠したまま管理を続ければ、大きな事故を招きかねない。不安や恐怖、不気味さを抱えての航海は、注意力の散漫から海難事故に繋がる可能性が増す。
 海は危険に満ちている。心の、ちょっとした乱れが、事故を誘発しかねない。
 オーナーに事の顚末を報告すべきか、それとも隠し通すべきか……。
 さて、竹村さんが今後どちらの道を選択することになるのか、見当もつかなかった。
 ただ、同様の災厄が自分のヨットに降りかかりませんようにと祈るばかりである。

©ilmarinfoto/Shutterstock.com
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鈴木光司

すずき・こうじ●1957年静岡県浜松市生まれ。作家、エッセイスト。90年『楽園』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。91年の『リング』が大きな話題を呼び、その続編である95年の『らせん』では吉川英治文学新人賞を受賞。『リング』は日本で映像化された後、ハリウッドでもリメイクされ世界的な支持を集める。2013年『エッジ』でアメリカの文学賞であるシャーリイ・ジャクスン賞(2012年度長編小説部門)を受賞。リングシリーズの『ループ』『エッジ』のほか、『仄暗い水の底から』『鋼鉄の叫び』『樹海』『ブルーアウト』など著書多数。

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