2020.10.6
船の事故物件 『海の怪』刊行記念 鈴木光司の特別書き下ろし
音の正体はすぐにわかった。
ビルジ(船底に溜まった汚水、水あか)が一定量を超えると自動的にポンプが動く「オートビルジ」が作動したのだ。
船の水密を保つのは難しく、どうしても船底にはある程度の水が溜まる。外部から染み込んだり、冷蔵庫やエアコンから漏れたりした水は、ポンプを作動させて外部に排出する。
オートビルジのスイッチがオンになっていれば、モーターが勝手に回り、ポンプが作動して汚水を吸い上げたとして何の不思議もない。
問題は水の色である。
舷側の喫水線より上に開いたドレーンホール(排水口)と呼ばれる穴から滴り落ちている汚水に淡い赤色が混じっていたのだ。
……船が血尿を垂らしている。
Kくんは思わずそんな第一印象を抱いたが、以前、別の船でも似たようなことが起こったのを思い出し、頭を横に振って不気味なイメージを払拭した。
その船の場合、船齢20年を超えているせいで亜鉛メッキが剥げ、ボルトやネジに浮いた赤錆が水に溶けていたのだ。
しかし、「アンダスタン」は進水から2年で新艇同然である。ボルトが錆びるには船齢が若過ぎるのだ。
「変だな」と首を傾げつつ、Kくんは、ボルトをチェック項目のひとつに加え、「アンダスタン」の船内へと入ってい」った。
まずはエンジンの様子を見ようと、デッキ後方のハッチを開いて船底に降りた瞬間、Kくんは次なる異変を感知した。
どのエンジンルームも、燃料やオイルを源とする独特の臭気が充満しているものである。ところが「アンダスタン」の狭いエンジンルームには、これまでに嗅いだことのない臭いが混じっていた。
すえた汗のような臭い……。燃料やオイル、鉄分とは明らかに異なる、生き物の残骸を源とするような臭い……。
Kくんの臭覚がしっかりと異物を嗅ぎ分けたとき、マリーナを低速で航行する船の引き波で船体がわずかに揺れ、立ち上がって身体を支えようとしたKくんは急な吐き気をもよおした。
これまで、船酔いとは無縁で、外洋を航行中のエンジンルームに降りてさえ平気なKくんにとっては信じられない事態だ。密閉されたエンジンルームで嘔吐すれば、後始末が面倒なことになる。大量の洗剤と水とブラシで床を掃除し、船底に溜まった汚水をポンプで排出しなければならない。何度掃除を繰り返しても臭気が残る恐れがある。
咄嗟の判断で、Kくんはハッチから顔を出し、上半身を引き上げ、身を折るようにしてデッキの床に吐瀉物をぶちまけた。
オープンエアのデッキなら、掃除は格段に楽になるし、臭いが充満することもない。
……危ないところだった。
胸を撫でおろし、吐き気が治まるのを待ってデッキに這い上がったKくんは、海を渡る風に全身をさらし、呼吸を整えた。
自分の身に起こったことに納得できなかった。嘔吐の原因が体調不良にあるとも思えない。
視線を落とせば、エンジンルームに降りる長方形のハッチの下に、黒々としたディーゼルエンジンがふたつ横たわっているのが見える。
眺めおろしているうち、治まっていた吐き気がぶり返し、胃液の逆流だけでどうにか堪えた後に、吐き気は背筋を這い上がる悪寒へと変わっていった。
Kくんは、長方形の入り口から一歩二歩と後退さりながら、ある直感を得た。
体調不良などではない。足の下の狭い空間にこそ、吐き気と悪寒の原因があるのだと……。
以来、Kくんは二度と「アンダスタン」のエンジンルームに降りられなくなってしまった。
Kくんの後を引き継いだMくんもまた、同様の事態に襲われた。
船に近付くと「ゴゴゴゴゴ」とオートビルジが作動して船尾側に開いた穴から薄い赤色が混じった汚水が吐き出され、それを見たタイミングで、吐き気と悪寒に襲われたというのだ。
熟練の船乗りであり、機関士の資格を持つ人間がふたりそろって異様な症状を訴えたのを受け、竹村さんはすぐにピーンときたという。
常に死と隣合わせの仕事ゆえ、船乗りには超自然の力を信じる者が多い。海が多種多様な怪異の宝庫であることを、船乗りは肌で知っている。
2年落ちで新艇同然にもかかわらず、購入価格が安過ぎたという事実も手伝い、竹村さんは、「アンダスタン」の来歴に不幸な出来事があったのではと思いつき、船業界のネットワークを活用して調査を始めた。
すると、グリーン・フラッシュの顧客である現オーナーのA氏が、瀬戸内海にあるマリーナから購入する以前に、もうひとり別のオーナー(O氏)がいたことが判明した。
アンダスタンの所有者は、O氏、瀬戸内海のマリーナ、A氏と移り変わり、それと同時に、所属するマリーナも大分から瀬戸内海、瀬戸内海から横浜へと場所を大きく変えていった。因縁の場所から遠ざかろうという意図が感じられてならない。しかも、瀬戸内海のマリーナに保管された期間は、ほんの3か月という短さだ。
オーナーが替われば船名も変わるのが通例で、初代のO氏が所有していたときは「ラッキーボーイ」(仮名)の文字が船体に記されていた。
大分のマリーナに陸揚げされた「ラッキーボーイ」が、船名と矛盾する、アンラッキーな事故に見舞われたのは、2年前の7月のことだった。