2020.10.6
船の事故物件 『海の怪』刊行記念 鈴木光司の特別書き下ろし
怪談界の重鎮・稲川淳二さんからは「心地よい恐怖に浸るうちに怪異な闇に呑み込まれてゆく極上のミステリーに酔い痴れました」と、絶賛コメントが届きました。
この刊行を記念して、鈴木光司さんが特別に書き下ろした恐怖のエピソード「船の事故物件」を、お贈りします。
怖がりの方は要注意、どうぞたっぷりと恐怖に浸ってください……。
☆『恐い間取り』の著者、松原タニシさんとの対談も、近日公開予定!!
ヨットでクルーズしてあちこちの港に停泊するたび、現地の人々をはじめ、他のプレジャーボートでやって来た船乗りたちにも声をかけ、積極的に言葉を交わすようにしている。
海の上では、人と人との絆と、そのネットワークから得られる情報が命となるからだ。
今年の夏は、仲間たちと伊豆七島をクルーズ中、舫いロープを取ってくれた縁で船の運航会社を経営する初老の男性と知り合い、桟橋で話がはずんだ勢いでヨットのデッキに招き、一緒に酒を飲むことになった。
仮に、彼の名を竹村さんとしておこう。
酔いが回っていい気分になり始めた頃、竹村さんは、「ちょっと怖い話なんですがね」と断って、自身の体験談を語り始めた。
酒が入ると記憶力がおぼつかなくなるのはいつものことである。相槌を打ちながら聞いていたものの、案の定、翌日になると彼から聞いた話の大半は忘れていた。覚えているのは船にまつわる怖い話……、という程度である。
クルーズから戻って1週間ばかり経った頃、ヨットに同乗していたクルーの義男から電話をもらった。商船学校出身の義男は、かつて商船の航海士として世界を巡った経験を持つが、現在は陸の仕事に就いている。ぼくの船に乗るようになって以降、沖縄、台湾、韓国など、長距離クルーズすべてに付き合ってくれた船の仲間である。
「ところで、例の話、覚えてますか」
世間話の後、彼はこう訊いてきた。例の話とは竹村さんが語った怖いエピソードのことである。
「いや、覚えてないなあ」
酒の酔いと、時間経過のせいで、彼の話は忘却の彼方へと消え去っていた。
「やっぱりね。実は、おれ、録音してたんですよ」
義男は、ぼくが海にまつわる怖い話を集めているのを知っていたため、気を利かしてスマホの録音スイッチを押したというのだ。ついさっき、スマホをいじっていて、そのことを思い出したらしい。
「録音データ、送りましょうか」
「ぜひ、たのむよ」
こうして、竹村さんが語った体験談がパソコンに転送されることになった。
ヨットのデッキで談笑しながら録音されたせいで、ところどころ、人の声、風や波の音、振動を伴ったノイズなどに遮られ、聞き取れない箇所もあったが、そこは文脈から判断して補うことにした。言葉の断片を繋ぎ合わせ、適当に辻褄を合わせた箇所も多々ある。登場人物のキャラクターはそれらしく造形させてもらった。
ここに紹介するストーリーは、録音された内容を作家の想像力で膨らませ、物語ふうに味付けしたものである。
話の全体像から、タイトルはおのずとひとつに定まってくる。
『船の事故物件』
竹村さんは、「グリーン・フラッシュ」(仮名)という船の運航会社を経営している。
船の運行会社といっても、自前の船を所有しているわけではない。航海士や機関士の資格を持つ4人のスタッフを、操船がおぼつかないプレジャーボートに派遣して、船長やクルーの代行をするのが仕事だった。
ヨットは、オーナー自ら操船するのが普通だが、ボートの場合は運航の一切を専門のスタッフに任せることがあり、船のサイズが大きくなるほどその傾向は増す。100フィート以上の超大型艇となると、オーナーが操船することはまずない。
グリーン・フラッシュは、船長やクルーの代行派遣と並行して、ボートが常に最高のコンディションを保てるようメンテナンスを代行する仕事も請け負っていた。
グリーン・フラッシュが管理を任されていた3隻のボートに加え、昨年に新規契約したのが、イタリア製のモーター・クルーザー(45フィート)で船名を「アンダスタン」(仮名)という。
今回紹介する怪奇譚の舞台となる船である。
45フィートのモーター・クルーザーは、日本においては大型艇の部類に入る。ふたつのベッドルームとバスルーム、キッチンやサロン、全室にエアコンを完備し、内装は豪華だ。
新艇なら億を超える値であるが、横浜在住のオーナー(A氏)は、瀬戸内海のマリーナから相場より安い値で購入したという。進水から2年を経過して外観は新艇同然である。
グリーン・フラッシュに管理運航を委託された新参艇「アンダスタン」に異変が起きたのは今年春先のことである。
桜の開花を1週間後に控えたある日のこと、機関士のKくんは、点検整備に取り掛かるべく、桟橋に浮かぶ「アンダスタン」に歩み寄っていった。
まさに船の舷側に手をかけたタイミングで、「ゴゴゴゴゴ」というモーター音が響き、彼の手に振動が伝わってきた。