2020.10.4
川村エミコの15年にわたる奮闘〜「声が出ない!私が舞台に立った日」
そもそも舞台に立つ人になりたかった始まりは、母のお兄さん、つまり叔父さんが「劇団民藝」というところで役者さんをしていまして、小さい頃舞台に連れて行ってもらっていたことです。幼稚園児の私は心奪われました。その観劇がキッカケです。
小学1年生のおじいちゃんのお葬式の時、喪主だったその叔父が親戚みんなの前で挨拶をしました。30畳くらいの広い部屋で御膳が一人一人に置かれて、叔父さんが挨拶を始めました。
「うちのおやじっていうのは……」で始まり、叔父さんが声を発した時から空気が変わりました。
暗いはずのお葬式が笑いに包まれました。叔父さんがものすごくかっこよく見えました。
私も叔父さんみたくなりたい!と思いました。幼稚園の時よりもさらに強く思いました。
さらに強く思ったにもかかわらず、大声大会でゼロデシベルを記録しました。なんたるや。です。
声全く出ないのに、小学校の休み時間、サインを考えていました。ピン芸人の時のサインは小学生の頃考えたサインを元にチョイ足しして作りました。
自分の声が出ない現実があるにもかかわらず、前向きなのか、鈍感過ぎたのか、舞台に立つ人にはずっとなりたかったです。多分後者です。
小学校の部活動は高学年から始まりました。演劇部はありませんでした。体育がとにかく苦手で未だに逆上がりが出来ないくらいなので、動きをせめて普通にしたかった私は、苦手だけど運動部に入りたかったのです。
Iちゃんという優しくて、クラスで一番背の大きな女の子に「家庭科部に入ろう!」と声を掛けてもらいました。私はバドミントン部に入りたかったのですが、「うん」と約束してしまいました。
仮入部も一緒に付いて行きました。
お料理は楽しかったです。とてもとても楽しかったです。
先生から配られた用紙に入りたい部活を書いて提出するのですが、最後の最後に「ただ楽しくて良いのか? 本当にやりたいことなのか?」ともう一人の私が声を掛けてきました。
鉛筆をギュッと握りしめて、気がついたら「バドミントン」と書いていました。
仮入部も一度も行かずに、入部しました。
私はIちゃんを裏切って「バドミントン部」に入りました。気持ちを言葉にするのも、「NO」を言うのも苦手でした。「NO」と言えない日本人です。イエスマンの癖に最後の最後に自分を貫く!という「だったら、最初に言ってよ!」と言われてしまう事をしてしまいました。
Iちゃんに「ごめんなさい。」と何度も言って、トロ過ぎる自分を普通にしたくて、バドミントン部に入りました。
入部してから、運動神経が本当に無いんだ!と思ったのですが、みんながスパンスパン楽しんでいる中、なかなかラケットに羽が当たらなかったです。
またなぜかバドミントン部なのに、縄跳びの時間がありました。未だに二重跳びを1回も跳べない私は前跳び専門にもかかわらず、全く跳べず永遠に引っかかりながら時間が経つのを待っていました。
トロいのは治らなかったような気がします。
中学にも演劇部は無かったので、バドミントン部での失敗を生かし、絵を描くのが好きだったので、美術部に入りました。
しっくり来ました。すごくしっくり来ました。
油絵でセザンヌの模写をひたすらしたり、4コマ漫画を描いてました。
そして、高校生。念願の演劇部がありました。
部活紹介の体育館。
演劇部の番です。ドキドキしながらステージを見たところ。弾けるチアリーダーのようなダンスを踊っていました。とてもじゃないけど、無理だと思いました。眩し過ぎました。
演劇部は諦めました。
完全に暗かったですが、鴻上尚史さんの本やイッセー尾形さんの本などのお陰なのか、前向きな自分もいまして、「まず!大きい声を出せるようにならなければ!」と思いました。
大きい声を出せるような部活はなんだろう。