2020.9.13
【9月15日は関ヶ原の戦いの日】「普通の人」徳川家康が天下を取れた理由
「生きる」が勝ち
徳川家康の人物像を把握するのは、容易なことではありません。
江戸期の軍記物では「神君・家康」を讃えるべく、さまざまな逸話が創造され、あたかも完全無欠の英雄であったかのように語られています。現代においても、最終的に天下を獲ったという結果から逆算した、いささか過大とも言える評価がなされているのではないでしょうか。
しかし言うまでもなく、彼も一人の人間です。苛立って爪を噛み、危機に見舞われれば、取り乱して腹を切ろうとする。三成の挙兵で窮地に陥ったのも、天下を半ば以上掌握したという油断からでしょう。
では、そんな彼がなぜ、最後に天下を獲ることができたのか。それは一言で言ってしまえば、「死ななかったから」でしょう。
家康の行動原理は徹頭徹尾、生き残ることにありました。彼が家の存亡を懸けた大勝負に出たのは、数倍の武田軍に挑んだ三方ヶ原の合戦だけです。後は、慎重の上にも慎重を期し、周囲の情勢を見定めた上で行動に出ました。
家康は、他の武将ならば切腹して果てるような状況でも、歯を食いしばってこらえ、みっともなくとも、生きるために足掻き続けました。鷹狩を好み、自ら薬草作りに凝っていたのも、少しでも長く生きるためのものでしょう。関ヶ原の戦いの時点で、家康は五十九歳、豊臣家を滅ぼしたのは、実に七十四歳です。当時としては、相当な長寿でした。
彼がそこまで生きることに固執したのは、家のために犠牲にせざるを得なかった妻と子のため、何があっても家を存続させることを誓ったからだった、というのは少し、感傷的に過ぎるでしょうか。
いずれにせよ、乱世を終わらせた英雄にしてはあまりに地味で、颯爽としたところに欠けた人物ではあります。信長のような苛烈さも、秀吉のような(晩年はさておき)陽気さも持ち合わせない、ある意味で最も「普通の人」に近いところが、現代の人気がいまひとつな理由かもしれません。
しかしそんな「普通」に近い人が最後まで勝ち残り、天下を獲って二百五十年に及ぶ平和の礎を築く。それはそれで、とても夢のある話ではないでしょうか。
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歴史小説家・天野純希さんによる「戦国サバイバー」では、家康の他にも、独自の個性を保ちながら歴史の隙間を縫うようにして戦国の世を生き抜いた人々を紹介しています。
挿絵のキャラ紹介漫画を担当するのは、歴史好きとして知られ、原作の映画『ねこねこ日本史~竜馬のはちゃめちゃライムトラベルぜよ!』も話題の漫画家・そにしけんじさんです。
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