2021.3.28
人気エッセイストのスズキナオさんが弱った時に読む2冊「人間は筒のようなものだという気持ちを取り戻させてくれる本」
元気がない時は『残響』を手に取りがち
保坂和志の『残響』も大好きな一冊。私は20代の前半に保坂和志の小説に出会って、それからずっと「このことを保坂さんならどう考えるだろう」と想像してみたり、頭の中で勝手に会話したりしている。だから「保坂和志の小説のこっちよりあれが好き」とかいう感じではもはやないのだが、元気がない時は『残響』を手に取りがちだ。
一冊の中に『コーリング』と『残響』の2つの中篇が収められていて、読み応えがちょうどいいからかもしれない。どちらの作品も好きだけど、特に弱っている時は、表題作の『残響』の方から読む。
大泉学園の借家に住む夫婦と、その家に以前住んでいて今は離婚してしまった夫婦、離婚した夫婦のうちの妻の同僚といった人物たちが登場するのだが、それぞれが直接的なコミュニケーションをとることはなく、みんなバラバラの場所であれこれ考えて生きている。だけど、その思いが本人たちも気づかない形でつながったり響き合ったりする。
たとえば借家に引っ越してきた夫婦が庭を見ていると、ある時ふとチューリップが芽を出す。それを見て、前にこの庭を手入れして、チューリップの球根を植えた誰かがいたということを感じる、という場面。また、登場人物の一人が建物の2階にある喫茶店からゴルフの練習場を見下ろしていると、そこでボールを打っている老人が目に入る。その老人のスイングを見ながら色々なことを考え、こうして何かを考えるということは自分と老人が関係したということなんじゃないかと思う場面。
この小説を読んでいると、会話したり手をつないだりということだけが関係なのではなく、時間や空間を隔てた関係とか、お互いが関係していることを知らないままでいる関係だってあるんじゃないかと思えてくる。たとえば自分がどこかを散歩して、その姿を誰かが見たり、通りがかりの猫が見たり、私も猫を見たり、知らない誰かを見たりする。みんなその後はもう一生会うことのない人々(や猫)だとしても、私たちの間には何か響き合いがあったんじゃないか。そんな風に考えると、ただ生きていることだけがそれだけで意味のある何かなんじゃないかと思えるし、自分がこの途方もなく複雑な世界に居合わせたのは、精一杯その複雑さを感じるためなのだという気がしてくるのだ。
今回ここで紹介するためにこの二冊を読み直していたら、驚いたことにどちらの本にもこんな部分があった。
「執着をもたず、自分は単なる物の通過地点であると思い込む(実際、生まれて死ぬということは、そういうことなのだから)」(沼田元氣『ぼくの伯父さんの東京案内』より)
「一泊二日の人間ドックで、一日目の夕方から深夜にかけて翌日の大腸のレントゲン撮影に備えて大腸を空っぽにするために固形物をいっさい摂らず水とジュースと紅茶を飲みつづけるように言われ(中略)口から肛門まで、からだの中を通る消化器がただの管か空洞になったように感じたときにも」(保坂和志『残響』より)
筒のような感覚。この世界にある素晴らしいものを自分の内側にたくさん通して、たまに強い風が吹いたら「ふぉーっ」と間抜けな音を鳴らすような、そんな存在でありたいと私は思う。
*「しんどい時によみタイ」特集連載一覧
●第1回 川村エミコさん