2019.2.23
2日間のギャラは50万円!? 80年代後半から始まった”レースクイーン・バブル”は、こんなにスゴかった!
80年代、黎明期のレースクイーンは「パラソルガール」と表記されていた。
サーキットで、スポンサー企業のロゴが入った衣装を身にまとい、レーサーに日よけ傘をさす。
これが、現在のレースクイーンの基本形である。
では、その発祥とは?
自動車総合ニュースサイト『clicccaar(クリッカー)』の小林和久編集長によると、「日本のオートバイレースno.1である『鈴鹿8時間耐久レース』で、80年代半ばだそうです。私が聞いた話では、開催時期の真夏、とあるチームの女性がライダーに日よけの傘を差したとか。そしたら、彼女にカメラが殺到した。これはいい広告塔になるということで、その女性の衣装にメーカーのロゴを入れて立たせたのだそうです」とのこと。
このスタイルは瞬く間に浸透していった。当時の様子を掲載した2輪レース雑誌『ライディングスポーツ』(絶版。現在は、ASB電子書籍書店で発売)の特集記事では、レースクイーンの名前はまだ存在せず、パラソルガールと表記されていた。
80年代の黎明期をじかに知る人物がいる。
カーレースのスーパーGTで超ベテランとして活躍を続ける、「R’Qs MOTOR SPORTS」代表の和田久選手(56歳)。84年にレースデビューした和田選手が最初にレースクイーンを見たのは85年。当時、国内トップカテゴリーのひとつだったフォーミュラカーのF2選手権でのことだった。
「キャンギャル(レースクイーン)は、一部のチームから出ていたんですよ。たばこメーカーがスポンサードしていた。『マールボロ』や『ジョン プレイヤー スペシャル』とかね。今の凝った作りの衣装と比べたら、とてつもなくシンプルな衣装でした。たとえば『マールボロ』は、白いハイレグ水着にロゴがズバッと斜めに入っているタイプ。『ジョン プレイヤー スペシャル』は、商品パッケージのカラーリングをそのまま反映させて、黒いハイレグ水着の胸の真ん中あたりに金色のロゴが入っているという感じでしたね」
バブル景気に湧く80年代後半は、目に見えてレースクイーンの数が増えていったという。
フォーミュラーカーの最高峰F1のブームとあいまって、F1直下のカテゴリーであるF3000選手権が国内のカーレースで最も人気を集めることに。各大手企業はこぞって金をつぎ込み、プロモーションに精を出したことで、サーキットは大にぎわい。現在、女優など多方面で活躍する高島礼子さんや飯島直子さんなどが、若手注目株として華を添えていたのも、ちょうどこのころである。
もうひとり、バブルの繁華を目のあたりにしたドライバーがいる。
和田選手と同い年であり、「R’QsMOTOR SPORTS」でパートナーを務める、城内政樹選手。ここ数年、個人スポンサーを募り、レース車体にその出資主の名前を載せるというユニークなビジネスを展開中。「鈴鹿サーキットスクール」で20年以上にわたる専任講師の経歴ももち、世界的なレーサーの中嶋一貴選手や山本左近選手など、数多くの教え子をかかえる“レジェンド”である。
「僕はもともとレーシングカート(著者注:パイプフレームにむき出しのエンジン、タイヤなどを取り付けたミニマムでシンプルな競技用車両)出身で、83年から11年間やっていました。レースクイーンをはじめて見たのは、88年の全日本カート選手権かなあ。サポートしてくれているレーシングカートの輸入代理店が、ファンサービス向けのブースを出展するとともにレースクイーンを派遣させるシステムを、その大会で初めてやったんですよ。
インパクトはありましたね。僕からすれば、F1のテレビ中継でしかレースクイーンは見たことなかったし、国内のF3000選手権に彼女たちが立ってるっていうことは知ってたけど、別世界っていう感じだったから。それが、カートの大会まで進出してきたわけですからね。衣装は、たしかハイレグ水着だったかな。髪型はワンレン。でもみんなウブな感じでね。いい成績を残せたので、傘をさしてもらうという特別な扱いを受けてうれしかったですね(笑)」