2019.11.26
選手&監督として近鉄バファローズで優勝した唯一の男! 梨田昌孝の「近鉄魂」とは!?
生え抜き監督として近鉄最後のリーグ優勝を達成!
1979年、1980年のリーグ連覇の立役者になった梨田は、1988年まで現役を続け、近鉄ひと筋の現役生活を終えた。1988年10月19 日のロッテオリオンズとの「10・19決戦」の第1試合では同点に追いつくタイムリーを放っている。
1989年はNHKのスポーツキャスター・野球解説者として、後輩たちのリーグ優勝を見届けた。1993年に一軍の作戦兼バッテリーコーチとしてチームに復帰。1996年から二軍監督をつとめた。
2000年に一軍の監督に就任し、2001年には近鉄として4回目の、そして最後のリーグ優勝を飾った。
「ピッチャーが少ない失点で抑えるというのが、野球の形としては一番いいに決まっている。でも、あのときの近鉄にはできなかった。5点取られて6点取る野球は、面白いと言えば面白かった。まあ、セオリーからしたら、ムチャクチャだったけどね(笑)。
試合時間が4時間を超えるのは当たり前、5時間以上かかるのも珍しくなかったね。ナイターの翌日がデーゲームのときに、マネージャーに『布団を用意してくれ、球場の監督室で寝るから』と冗談を言ったことがある(笑)」
打って、打たれてという試合は当然長くなる。しびれを切らして帰宅したファンが翌日の試合を新聞記事で見て驚くという展開も少なくなかった。2001年に挙げた78勝のうち、41回も逆転勝ちがあった。
恩師の西本に相談し、未知なる北海道へ!
2004年に近鉄のユニフォームを脱いだあと、2008年に北海道日本ハムファイターズの監督に就任した。監督要請を受けるにあたって、真っ先に恩師の西本に相談している。
「日本ハムに返事をする前に、西本さんにお話したら、『近鉄はもうないんやから、一番先に声をかけてもらったところに行け』と言われました。北海道には知っている人もいないし、初めての球団だし……と思っていたんだけど、背中をそっと押してもらいましたね」
就任2年目の2009年にチームをリーグ優勝に導いた。
2016年から東北楽天ゴールデンイーグルスの指揮をとった。いみじくも梨田は、恩師の西本と同じく、パ・リーグの3球団で監督をつとめた。二度、日本シリーズに出たが、日本一の座には届かなかった。
8度の日本シリーズを戦い、すべて敗れた恩師に日本一になるところを見せられなかったことが、梨田にとって残念でならない。
「どうにかして、西本さんに近鉄が日本一を獲る瞬間を見てもらいたかった。そのために野球をしていたようなところがあるからね。
近鉄は日本シリーズでは勝てなかったけど、いい球団だったと思う。選手ひとりひとりが、自分の個性をどうアピールするかを考えていたと思う。長所を伸ばせる環境にあったことが、チームとしての強みだった。みんながノリノリで、『いてまえ』でね」
選手時代の優勝はもちろん、うれしかった。だけど、監督としての優勝はまた格別でした。全員で喜べることがこんなに幸せなのかと思ったね。選手、コーチはもちろん、裏方も、家族も、そのほかいろいろな人も。その代わり、負けたときは全部、監督の責任。本当に大変な仕事だと感じましたね」
ふたり目の証言者は、あのホームラン王、ラルフ・ブライアント氏! 仰木監督時代の優勝の原動力となった助っ人にとっての近鉄魂とは!? 11/28(木)21時 配信予定です。お楽しみに!
『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』の詳細はこちらから!
書籍の情報はこちらから!
『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』<