2026.1.28
自分の感情が「甘え」なのか気になってしまう人たち【こんな質問が来る 第4回】
その苦境は自分の手に負えるものなのかどうか
「わが国の人びとは、おおむね、〈世間〉に準拠して、はずかしくない行動をすることを、社会的規範の基本においてきた」
これは土居の「甘え」論と同時代の日本文化論である心理学者・井上忠司の『〈世間体〉の構造 社会心理史への試み』の冒頭で述べられる一節である。日本社会において普遍的な価値基準は十分な効力を持つものではなく、人々はその時々の世間の基準から自分だけがはずれることのないよう、その都度「世間の目」を確かめながら、「世間と自分とのあいだに生じるズレを微調整しながら生きてきた」という井上の分析である。
それから半世紀。リアルな人間同士のかかわりあいを希薄化させ続けたわれわれにとって、「世間の目」はもはやSNSやネット空間で交差するまなざしで占められつつある。就学も就業もかつてにくらべてはるかに多くの選択肢が準備された現代。リアルな人間関係はいくらでも選択可能でリセットもできるようになった。こんな時代においては、リアルな人間関係で嫌われるよりも、ネットで炎上する方がずっと怖い。これが令和の世間である。
自分の感情は世間でどう評価されるだろうか。つらいと感じる権利と資格を認めてもらえるだろうか。そんな不安から、愚痴や弱音の最後にその正当性についての評価を委ねることによって、世間に対して恭順の意を示す。これが現在、ネット空間で発される「これって甘えですか?」という問いの構造だろう。
たしかに先述の『〈世間体〉の構造』においても、井上は、向上心や野心よりもむしろ、人々の「〈世間なみ〉に生きたい」というこだわりが近代の日本社会を発展させてきたと指摘している。
しかし、「甘え」の意味の変遷を見ても分かるように、令和の現在、世間とわれわれの関係は、もはやかつてのようなものではなくなってしまったことに注意しなくてはならない。
職場の「飲みにケーション」から結婚を急かす親戚の「おせっかいおばさん」まで、公私にわたって息苦しいほど踏み込んでくる代わりに終身雇用やコミュニティの枠組みに人生をまるごと包み込んでくれた世間はもはやかつてのものである。
昭和の人々が目指した「世間なみ」という基準。現代の言葉に落とし込むと「ふつう」になるだろうか。現代社会に生きる多くの人にとって、「世間なみ」、つまり「ふつう」というハードルを自らに課すことは果たしていまだに現実的なことなのだろうか。
そのようなことを普段から考えているので、「これって甘えですか?」という質問が来た時の僕の回答はいつも次のようなものになる。
「それが甘えだと誰かに言われたなら、あなたはそのつらさを飲み込むことができますか?」
気になることが色々あるのも分かる。しかし、結局、本当に重要な問題はたったひとつなのだ。その苦境は自分の手に負えるものなのかどうか。世間からすると「この程度のこと」をつらく感じてしまうこの心身でどうやって生き残っていくのか。それだけなのだ。甘えであろうがなかろうが、そんなことは自分の問題ではない。
個人にとって本当に切実な問題は、世間の評価が分からないことではない。世間の評価ばかり窺っているあいだに、自分の本音がもう自分でも分からなくなってしまっているということだろう。
そんなふうに日々届く「これって甘えですか?」質問と格闘している折、『虚弱に生きる』(絶対に終電を逃さない女著)が話題となって快調に版を重ねていると聞く。タイトルのとおり、「ふつう」のことが「ふつう」にできない著者自身の生活についての克明な告白であり、「ふつう」を強いる世間に対する不屈の告発である。
好評を聞いていると、これまで述べてきたような令和の世間の同調圧力に耐えかねていた人々の「よくぞ言ってくれた」という喝采のうねりのようなものを感じる。「ふつう」と「甘え」という言葉で絶えず自己検閲を求めてくる世間に抗する、新しい時代の反骨精神の表現といえるかもしれない。
……と、こんな原稿をせっせと書いているこんな夜にも、僕の質問箱には、自分の中に育てた世間のまなざしで自分の感情を「甘え」という言葉で断罪しようとする質問が届く。
この人は真夜中に何を辛気臭いことを言っているのだろう。つくづくままならないものだなと思う。せっかく匿名で投稿できる質問箱なのだ。「王様の耳はロバの耳!!」と叫ぶように「無理なものは無理!!」と思い切り言い散らかしてもいいのに。
街にその声が響き渡れば、誰かと手をつなぐことだってできるかもしれない。
きっと、それもまた「甘え上手」なのだ。
次回連載第5回は2/25(水)公開予定です。
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