2025.7.5
ご馳走を取り仕切るのは「お父さん」——市販のタレがもたらしたすき焼きの民主化
日本の「おいしさ」の地域差に迫る連載。
前回まで、日本の甘い味付けの料理の代表格、すき焼きについて考察してきました。物語は一気に現代の食卓へ、そして本連載も大団円を迎えます!
和食あまから問答④ 現代すき焼き興亡史
僕はある時、日本のすき焼きの味付けの中心値はどこにあるのか、ということがどうしても気になり、まずはデータを取ることにしました。とりあえずの対象は、
①料理本やネットなどのレシピ
②食品メーカー各社の「すき焼きのタレ」の成分表
つまり全て「割り下」です。本来であれば
③砂糖+醤油パターンのレシピ
も対象に入れるべきですが、残念ながら、これが厳密に数値化されたレシピはあまりありません。それに現代の日本においては、関西も含めて割り下やすき焼きのタレの方が主流です。なのでとりあえずはこれで話を進めます。
レシピの分量や市販調味料の成分表から、味覚としての甘さは、かなりの程度推定できます。僕(料理家としての稲田俊輔)はこれを「みりん比」という(独自に考案した)数値で表します。みりん比の具体的な算出法は、これはレシピ本ではないので省略しますが、どうしても気になる方は、拙著『ミニマル料理「和」』をご購入ください。
閑話休題。結論から言うと、①の割り下の標準値は「みりん比2」でした。これをわかりやすくレシピに落とし込むと、
・濃口醤油 90g
・みりん 90g
・砂糖 30g
といった感じになります。
それに対して、②の標準値は「みりん比3」でした。市販のすき焼きのタレがかなり甘め、というのは、実際の体感とも一致します。これもレシピ化してみると、
・濃口醤油 90g
・みりん 60g
・砂糖 70g
といったところです。ただし実際の市販のタレは、これ以外にだし的なうま味成分なども含まれてもっと複雑なのですが、基本的なあまから味の構成はこのくらい、ということでご理解ください。
さて、このみりん比が2なのか3なのかという違い、単に「甘さが1.5倍違う」というだけではありません。そのことを料理人としての立場から簡単に説明するとこうなります。
「みりん比2のすき焼きは常に世話を焼き続ける必要があるが、みりん比3なら特にその必要が無い」
どういうことかお分かりでしょうか。前者はちょっとでも煮詰まりすぎるとすぐにしょっぱくなるけど、後者であれば多少煮詰まってもそうしょっぱくはならないし、逆に薄まって味気なくなることも少ないのです。要するにストライクゾーンが広いんですね。市販のタレは何らかうま味成分が含まれますが、うま味はそのストライクゾーンをさらに広げてくれます。
②の中で、僕が発見した最も低いみりん比は1.5でした。そのレシピには「東京の老舗すき焼き専門店直伝」という説明がありましたが、これには納得です。1.5ともなると、ストライクゾーンはさらに狭い。かなりシビアなんです。だからそういう店では、仲居さんがつきっきりでお世話をしてくれます。すき焼きを作るだけではなく、タイミングを見計らってお客さん一人ひとりの取り鉢に取り分けてくれるところまでやってくれます。
僕はかつて、そういうすき焼きの老舗に、すき焼きの作り方を習いに行ったことがあります。もちろんそこも名店と言われています。ただしそこは、元々はすき焼きがメインの店だったのですが、今ではしゃぶしゃぶの人気がすっかり逆転しています。それもあって、すき焼きの席を仕切れる仲居さんは、今は数人しかいないとのことでした。しゃぶしゃぶなら、パートさんも含めて、在籍する仲居さん全員が作れる。しかしすき焼きを取り仕切れるのは、一握りの熟練エキスパートだけ、ってことです。
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日本ですき焼きが家庭料理になり始めたのは、昭和30年代からだそうです。そしてその時代、飲食店、特に飲酒を伴うような店は、ほぼ完全に「男の世界」でした。ホモソーシャルってやつです。明治の東京では、「カフェーの女給と牛鍋をつつく」という夜の遊びが人気だったそうです。カフェーの女給というのは、今で言う「キャバクラ嬢」みたいなもの。完全に男の世界ですが、それはその後も戦争を挟んで長い間持ち越されてきたというわけですね。
昭和30年代というのは、すき焼きに限らず、肉料理自体が家庭では滅多に食べるものではありませんでした。そんな時代にすき焼きを作れるのは、外の店で仲居さんの技を見よう見まねで習得したお父さんたちだけでした。もちろん割り下を使う関東風すき焼きだけでなく、砂糖と醤油の関西式でも同じことです。何ならそっちの方がさらに難易度が高い。
さすがに仲居さんのように終始奉仕する側に徹することこそなかったでしょうが、特別なご馳走であるすき焼きの日、お父さんは厳格な鍋奉行として家族の食卓に君臨しました。戦後の民主化で、良くも悪くも家庭内での立場が弱くなっていくお父さんたちにとっては、またとない晴れ舞台だったのかもしれません。
しかし、時代は変わります。お父さんたちの立場はさらに弱くなり、そもそも鍋奉行はうっとうしがられるものです。
仲居さんにも鍋奉行にも頼らずに失敗なくすき焼きを作ることは、ある意味簡単です。そう、甘い割り下を用意すればいいわけですね。この時代、家庭にすき焼きが浸透していく中で、関西でも割り下を使う文化は徐々に広がっていったようです。そしてその流れを一気に加速させたのが、市販のすき焼きのタレでした。
市販のタレの元祖は「エバラすき焼きのたれ」であると言われています。厳密にはそれに先行する商品も無いではなかったようですが、それを全国に普及させたのは、この商品と言って間違いないでしょう。
最初に発売された「エバラすき焼きのたれ」の、みりん比は約2でした。つまり、仲居さんがつきっきりになる専門店ほどではないにせよ、お世話が必要な味付けです。しかしこれは、おそらくそういう味にある程度慣れていたのであろう関東ではそれなりにヒットしたものの、関西での売れ行きはさっぱりでした。「もの足りない」「しょっぱすぎる」といった不満があったようです。この二つの不満は、一見相反するように見えますが、決してそんなことはありません。狭いストライクゾーンの、上に外れるか下に外れるか、というだけの話です。
それを受けてエバラは、そんな関西の市場を意識した「エバラすき焼きのたれマイルド」をリリースします。こちらのみりん比は約3。これが当たりました。関西でヒットしただけではなく、その後、全国的にも広がっていきました。

ここで少し脱線します。割り下を使わない「関西風すき焼き」の味付けについて、改めて深掘りしてみましょう。最初に書いた通り、その数値化されたレシピを抽出することは困難です。ここでは、あくまで僕自身の経験に基づいて、話を進めていきます。
僕が子どもの頃から体験してきた家庭のすき焼き、そして関西の(仲居さんが取りしきる)すき焼き専門店での体験から、標準的と思われる配合をあえてレシピ化するとこんな感じです。
・濃口醤油 60g
・砂糖 60g
この配合をみりん比で表すと「3」です。その数値自体は、市販のすき焼きのタレと同じなのですが、その意味するところは、実のところ少し違います。あえて「みりん比2」の割り下を基準として説明するならば、市販のタレは「そこにさらに甘みを加えたもの」であり、関西式の配合は「そこから醤油を減らしたもの」なのです。関東では、醤油の風味を重視します。なので、しょっぱくなることを避けたいとしても、醤油の量自体はそうそう減らせません。それに対して関西においては、醤油はあくまで補助的な調味料。素材、つまり牛肉のおいしさを引き出すための最低量が入れば十分なのです。
この観点から「エバラすき焼きのたれマイルド」という発明の偉大さを改めて考察してみましょう。関東では、これをたっぷり加えることで「醤油の効いた、味が濃くておいしいすき焼き」になります。関西では、焼いた肉にやや控えめな量を加えることで、「肉のおいしさを引き出す、甘くておいしいすき焼き」に仕上げることもできます。しかも両方の場合で、そこに特別なお世話は必要ありません。誰かが奉仕役に徹することも、鍋奉行が威張り散らすこともありません。戦後民主主義的なすき焼きが、ついに完成したのです。
前回僕は、割り下か砂糖+醤油かは本質的な違いではない、と断言しました。ここまで述べてきた通り、本質的な違いはそこではなく、「お世話が必要か否か」にあるからです。関西と関東の違いは、質的な差異と言うよりは、「量の概念」における差分です。すき焼きは、もはや、みんなのものなのです。
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