2025.12.5
マーク・パンサー 「メンノンでやってこれたんだから大丈夫」というのは間違いなくあった【実録・メンズノンノモデル 第1回 前編】
本連載では、そんなメンズノンノの40年の歴史を紐解きながら、かつて専属モデルとして誌面に登場し、その後、様々なフィールドへと羽ばたいていった「メンズノンノモデル」たちの“現在”の姿と声をお届けしていく。
初回は創刊初期から約8年にわたって専属モデルを務めたマーク・パンサーさんが登場。後にMTVジャパンのVJやglobeのメンバーとして飛躍し、近年もDJやアーティスト、さらには健康生活研究家など多岐にわたって活動中の彼に、モデル当時のエピソードから近況までたっぷりと前編と後編に分けてお届けする。前編はメンズノンノモデルだった頃、80~90年代のエピソードから。
取材・文/徳原 海 撮影/延命悠大
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僕みたいなモデルがメンズノンノには必要だと思った

「マーク・パンサー」の名が日本中に広く知れ渡ったのは1995年のこと。あの伝説的音楽ユニットglobeの登場によってである。彼が繰り出すメロディアスなラップとステージ上でのパフォーマンスは、小室哲哉が作り出すリズムトラック、KEIKOが放つ圧倒的音域のヴォーカルに新鮮なスパイスを加え、当時のPOPミュージックとは一線を画した革新的なスタイルを作り出して90年代のヒットチャートを席巻。そんな彼のアーティストとしてのルーツが、実は雑誌メンズノンノにある。メンズノンノは人気女性誌『ノンノ』の男性版として1986年に創刊。その初期から90年代の中盤にかけて、マーク・パンサーは同誌の専属モデルとして誌面を彩った。しかも現在のような誌上オーディションではなく、自ら編集部に売り込んでのデビューだった。
マーク モデルは2歳の頃からやっていましたし、ファッション誌では『チェックメイト』(※1974年から1999年まで講談社から発行されていた)をはじめいろいろと出させてもらっていました。メンズノンノに出始めたのは15か16歳の頃。自分でポートフォリオを持って行ったのが最初ですね。はじめ未成年はダメだと言われましたが、とあるカメラマンの方にプッシュしていただいて。そこからちょくちょく撮影に参加させてもらっていたのですが、当時のモデルではハーフがローリー(※桐島ローランド)しかいなくて、彼が日本人寄りの顔だったので僕みたいな外国人寄りのハーフも必要じゃないかとアピールして(笑)。それであるとき専属モデルのオファーをもらって、他の雑誌に出るのをすべてやめてメンズノンノに絞ったんです。
なぜ、メンズノンノだったのか。その理由は創刊号の「表紙」だった。記念すべき第1号の顔となったのは、女性誌ノンノの誌上オーディションによって「ノンノ・ボーイフレンド」に選ばれ、ノンノモデルのボーイフレンド役として同誌の誌面を飾っていた阿部寛。好感度の高い爽やかなファッションに身を包む男性が雑誌の表紙になるのは当時の日本では珍しく、世間でも大いに注目を集めたが、それが若き日のマーク少年の心にも突き刺さった。
マーク いやもう、衝撃でした。たしか海辺のポートレートで、顔が汗でちょっと光っていて。そのポスターがデパートとかにでかでかと飾られているのを見て、「これだ」って。当時の僕にはなにか違う世界への入り口みたいに見えたんじゃないですかね。実際その世界に入ってみると撮影は本当に楽しかった。バブル時代でもありましたら、とにかく一回一回の撮影にお金がかかっていたと思いますし、ロケで行く場所もすべてが新鮮で面白かった。
今も昔も、10代半ばの若いモデルがデビュー当初から“自分らしい表現”をするのは簡単なことではない。普通ならば、右も左もわからないところからスタートし、撮影本数を重ね、カメラマンやヘアメイク、スタイリスト、編集者との現場ごとの様々な掛け合いを経験しながらじわじわと培っていくものだ。しかし彼は、当初からある種のプロ意識にも近い感覚を持ち合わせていた。
マーク 阿部さんもそうですけど、当時のモデルは風間トオルさんとか加藤雅也さんとか、みんなキリッとしたカッコイイ男たちで笑顔が少ない雑誌だったから、その(少ない)ポジションを僕が埋めようと思ってやっていました。だから僕のソロはほとんど笑顔ですし、集合カットも僕が入ると自然とみんな笑顔になることも多かったですよね。それこそ、僕の小さい頃からのモットーが“SMILE IS MONEY”。笑ったほうがモノが売れるんじゃない?って。

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