よみタイ

第2回 顔を作る

ふだん何となく思っていながらも保留にしがち、あるいは言い切れないこと。 世間で起こる事件、流行、事柄、町で見かけたことなどについて、 違和感と疑問をスパッと投げかける。 群ようこ流、一刀両断エッセイ。

 ひと月後にパスポートの使用期限が迫っていて、更新しようかどうか迷っていた。お留守番ができず、かつペットシッターさんを受け入れない高齢の飼いネコがいるため、今まで海外どころか一切の旅行ができず、これまで十年用のパスポートも真っ白なまま。IDとして持っているだけだった。これから海外旅行に行く計画はないけれど、運転免許証のようなIDを持っていない私は、そのためだけに一万六千円を払うべきなのだろうかと考えた。
 原付免許は簡単に取れて値段も安いので、若い人たちのなかにはそれをIDがわりにしている人もいるようだ。調べてみたら、90デシベルの音が十メートル離れたところで聞こえる聴力が必要とか、視力とかの適性検査もある。モスキート音は聞こえないが、それくらいの音量だったら聞き取れるだろうが、万が一合格したとしても、還暦を過ぎた身としては、実技講習がうまくできる自信がない。体力を使うものは無理だと判断して、パスポートの更新手続きをすることにした。
 期限前のパスポートを持っていると、準備をする書類が少なくて済むのはとても楽だが、写真は新たに撮影しなくてはならない。前は商店街のなかの写真館で撮影してもらった。そこの店主のおじいさんがネコ好きで、飼いネコの話をすると止まらず、撮影は十分ほどだったのに、飼いネコの歯槽膿漏の話が一時間以上続いたのだった。しかしそのおじいさんはすでに亡くなり、代替わりをして防音設備のある貸しスタジオになった。そこで徒歩圏内にある写真館を探してみたら一店だけあったので、午前中に行ってみると二人の先客がいた。一人は四十代後半ぐらいの女性で、パウダーファンデーションのケースについている鏡を見ながら、一所懸命にノーズシャドウなどの影を顔周りに入れて凸凹を作り、髪の毛もきれいに整えている。もちろん私はぼーっとそれを見ているだけである。もう一人は制服を着た高校生で、受付の人に、
「別のネクタイを締めなくてはいけなかったので、今、友だちに連絡して、持ってきてもらっています」
 と告げていた。十五分ほどで女性の撮影が終わり、高校生のネクタイがまだ届かなかったので、先に私が撮影させてもらった。
 スタジオに入ると、私よりもずっと年上の、受付兼カメラマンの人は、じーっとこちらの顔を見ている。私のこの顔面をどうやって撮影したらいいのか、考えているようであった。しかし証明写真なので、どこに陰影をいれたらよいかという問題ではなく、私としては「何かやらかしそうな顔」に写っていなければどうでもいいので、カメラマンの熱心さが気恥ずかしくなってきた。
 カメラの前に座るようにうながされ、レンズに目をやると、
「パスポートの写真なので、緊張しないでちょっと笑ってください」
 といわれた。これは今までに何度もいわれた経験がある。私は写真が苦手なので、そういわれると本当に困るのである。自分なりに愛想のいい顔をすると、カメラマンは、
「うーん」
 とうなって、ファインダーをのぞくのをやめてしまった。そんなに愛想の悪い顔をしていたかしらと考えていると、
「顎を引いてください」
 という。
(えっ、顎を引くって……)
 といわれたとおりに顎を引こうとすると、
「あのですね」
 とまた撮影は中断した。
「顎を引くというのは、今やったようにただ顎を引くのではなく、まず顔を一度、平行に前に出します。そしてそのまま顔全体を後ろに引くのです」
(はあ?)
 生まれて六十年以上、そんなことをいわれるのははじめてだったので、何だそりゃと思いながら、たった今いわれたことを思い出しながらやってみると、相変わらずカメラマンは、
「うーん」
 といって首をかしげている。あまりに私が「顎を引く」ことができないので、「まあ、いいです」といった見切り発車で撮影がはじまった。
 すると何カットか撮影した後、カメラマンが、
「はい、目を大きく見開いて」
 といった。
(えっ?)
 たしかに私は生まれつきちっこい目であるが、これが普通なのである。大きく見開いたりしたら、ものすごく不自然なのではないかと躊躇ちゅうちょしていると、
「はい、いいですか、目をおーきく、おーきく開いてえ、はい、まだまだ、もっと開いてください」
 とカメラマンの声がだんだん大きくなってきた。私はちっこい目を精一杯見開きながら、(もうこれ以上は無理だし、絶対、変な顔になってる……)
 と心配になってきた。しかしその後もずーっと、「思いっきり目を見開け」「もっとおーきく、おーきく」といわれ続け、必死に目を見開いた結果、上まぶたと下まぶたがちぎれそうになり、目玉が乾燥して涙が出てきた。
「はい、結構です。しばらくソファに座ってお待ちください」
 やっと終わってどっと疲れた。隣で高校生が友だちにネクタイを持ってきてもらい、
「ありがとう。帰りにおごるから待ってて」
 といっているのを聞きながら、
(絶対に変な顔になっている。あんなに不自然に目一杯、目を見開かせるんだもの。困ったなあ)
 と悩んでいた。ふだんの生活であんなに目を見開くことなんてないし、自分がどんな顔をしていたのか想像もつかなかった。

 十分ほどで写真が出来上がってきた。私はどうせ変な顔になっているに違いないと、ちらりと見ただけで、支払いを済ませて帰ってきた。家に帰ってあらためて見てみたら、私の目はふだんよりちょっと大きくはなっているが、ごく普通(といっても一般的にはまだ小さい)で、無理やり目を見開いているようには見えなかった。あんなに力一杯見開いて、出来上がった写真の目の大きさが普通って、いったいどういうことなのだろうか。
 カメラマンは何とかしてこのちっこい目を、普通の大きさにまでもっていこうと、
「おーきく、おーきく」
 と大きな声で叫んだに違いない。
「ああ、そうですか……」
 私は自分のパスポート写真を見ながらつぶやいた。もしいわれたようにしていなければ、私の目はどのように写っていたのだろうか。撮影されるのに馴れている人は、自分なりの「写真顔」の作り方を知っているのだろう。ブログやSNSで自分の画像を載せている人、特に女性は口角の上げ方や目の見開き方など、自分がどうしたらふだんよりもましに写るかを、鏡を見て研究しているに違いない。私の感覚だと、よく撮れた写真というのは、偶然の一瞬を切り取った一枚と思っていたのだが、実は自分が作る一枚だったのかもしれない。
 しかしカメラマンは本当に一所懸命になってくれた。私の目もちょっと大きくなってありがたかったのだけれど、そうするために「顔を作る」なんて想像もしていなかった。正直、証明写真にそこまでする必要があったのかなとも思う。最近は証明写真ボックスでもきれいに撮影できるというし、写真館で撮影するのなら、できるだけいい写真をというのが、やはりプロの矜持きょうじだったのだろう。この写真では、顎を引いた効果が出たのか出ていないのかはわからなかったが、ともかく私なりに力一杯がんばって見開いた目の写真で、これから十年、私の顔は世界的に証明されることになったのであった。

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群ようこ

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社。84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』で作家としてデビューし、同年に専業作家となる。小説に『無印結婚物語』などの<無印>シリーズ、『しあわせの輪 れんげ荘物語』などの<れんげ荘>シリーズ、『今日もお疲れさま パンとスープとネコ日和』などの<パンとスープとネコ日和>シリーズの他、『かもめ食堂』『また明日』、エッセイに『ゆるい生活』『欲と収納』『還暦着物日記』『この先には、何がある?』『じじばばのるつぼ』『きものが着たい』『たべる生活』『小福ときどき災難』『今日は、これをしました』『スマホになじんでおりません』『たりる生活』『老いとお金』『こんな感じで書いてます』『捨てたい人捨てたくない人』『老いてお茶を習う』『六十路通過道中』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 評伝・平林たい子』など著書多数。

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